気にしない

 世の中なんだかんだと気になる事が多いが、道義的に恥ずかしい事をしないのが第一で、それ以外で図に当たらないのは残念だけど失敗も経験のうちと次に切り替えていくしかない。気にしても仕方がない。むしろ利益第一で人倫に背くようなことをしたり、他人のそれを見逃したりしないように留意したい。

 何が正しく何が間違っているかは、状況が複雑になるほど単純には判断できなくなる。だから、何かが善いとか何かが悪いということを「絶対に」決めつけてはいけないと言う人は多い。だがこの論法は多くの場合、寛容さの美徳を示さずに明らかな悪を見逃す言い訳として使われる。

 通り魔が人を襲っている時に犯人の心情や価値観に思い巡らす必要がないのと同じように、社会的弱者から搾取の限りを尽くす経済ヤクザがいたら労基に相談するべきだし、外国人や女性や特定集団を差別するような人はまず止めるべきで、こうした人達に刑罰や治療が必要かどうか思い巡らせるのは愚行を止めてあげてからでよい。

 明らかに間違っている人に対する合法的な抗議は多様性を損なう事でもなければ正義のポリコレ棒で暴れる事でもない。そんな批判なんて気にしなくていい。

 特に権力者が誤ちを犯した時、何が何でも権力者様は悪くないと庇い立てする人が出てくるが、そうした行為は権力者のためにもならない。人は相手が誰であろうと、明らかな間違いは間違いだと言えて、また、自分が間違えた時は他からの批判を聞ける心を持つべきだ。

 自分が悪いことをしていないかさえ気にしていれば、あとのことは些末な問題だ。気にせずどっしりと構えていればいい。

コメント

このブログの人気の投稿

妙好人、浅原才市の詩

現代中国の仏教

懐中名号