日本の書道や茶道や華道や香道や各種の武道には型や決まり事が多くあります。初心者には一見無駄に思えるその所作も、型を守り修練していく事でその意味が分かってくるものです。

 一般社会も似たようなもので、挨拶や食事のマナーや交通ルールなど様々な型が存在しています。それぞれの型は社会が円滑ですごしやすくするために必要なものです。

 型にはめるという言葉は、学校教育で児童生徒らの個性や独創性を封じる事の批判としてよく使われます。例えば現代の倫理観に合わない校則を改正せずに無理矢理守らせたりするのは問題です。しかし、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわれる自由がないのを学校による子供たちへの支配だとするような意見は控えめに言ってもアホでしょう。

 絵画や音楽はある程度の基礎が出来ていないと個性を発揮することも出来ません。千利休が説いたと言われる守破離という考えは、まず型を守り練習を重ねその意義を十分に理解し、その理解があるから型を改良することもでき、やがては型から自由になれるけど、その自由はもとの型の目的や心にかなったものでなければならない、というものです。活人剣の修行をつんだ結果として殺人剣の技が磨かれるのは守破離では無いのです。

 こうした考えが分からないと全ての型やルールを自由を阻害する悪しき風習ととらえる誤解が生じるのです。

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