知の暴力、その2
以前も知の暴力について書いたが、圧倒的な知識や知能の格差は暴力的な収奪を生む。時には命すら奪われる。
もし、あなたがボクシングのヘビー級チャンピオンとどちらかが戦えなくなるまで殴り合いをしなければならなくなったとしたら、ほとんどの人は何かしらこちらが有利になるルールの適応やハンデを要求することだろう。適正なレギュレーションがなければ負けるのは目に見えているからだ。
表現や言論の自由も無制限にこれを許せば、同様の事が起きる。全てを自由にしたら、知的に優秀な人は知的弱者から徹底的に収奪するのが残念ながら世の常だ。だから、暴力的な言論や表現の自由を制限するために、詐欺罪や侮辱罪や脅迫罪やヘイトスピーチ解消法などがある。そもそも、殺人や傷害や暴行が刑法違反になっているのも広義には表現の自由を阻んでいるが、これに異を唱えるのは犯罪者くらいだろう。
日本だけでなく、全ての国において無制限の表現の自由を認めている国なんて存在しない。表現の自由とは公共の益を考えた上での制限された自由であり、社会の秩序と治安を守るためにはそうしなければならない。無制限の表現・言論の自由などあってはならない。それはもはや自由ではなく弱肉強食の混沌だ。
知は暴力でもあるのだから、教育が大切なのだ。広く十分な教育を施すことは知的格差の縮小に寄与する。しかしながら、いくら教育をしても理解に乏しい人間は存在する。なんでもかんでも自由にしてしまえば、彼ら弱者は搾取される一方だ。日本では古くから読み書きそろばんを重んじられていたのは、そういう事が出来ないと騙され奪われるからだ。実際に、そういう能力に欠ける者は奪われ続けてきたのだ。
最初のボクシングの話だが、もしチャンピオンの立場ならば自分に有利な自由な殴り合いを希望するだろう。知的に優秀な者がとかく自由だ自由だと言うのはそれが自分にとって有利だからに他ならない。弱者や虐げられた者への慈悲の心が少しは欲しいところだ。
だが、今現在において知的に優秀な人よりも圧倒的に多く表現の自由だという人々は遺憾ながらヘイトスピーチ愛好家だ。彼らは知的に劣っており説得も困難だろう。だからこそ、公的な強制力が必要とされるのは言うまでもない。
今、私達が謳歌している制限された言論や表現の自由は、公的な暴力装置に守られているから決まった範囲内で自由なのだ。そうでなければ、個々の暴力と知略によってしか自由は担保されない。「無制限の」自由を欲する人間はそのことをよくよく考えてほしい。
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