酔っ払うと本性が出るのか?あるいは理性と仏性の話
酔って不祥事をしてしまう人はまあまあいる。そして、日頃は真面目そうにしておいてアレが奴の本性だったのか!などと批判を受けがちだ。まあ、人間としての知性による抑制が外れ本能に忠実になるのを本性だと言えばそうなのかも知れないが、果たしてそれを人の本性として良いのだろうか?
そもそも本能むき出しの状態が人間の本性だと言うのなら、大体の人間の本性は非倫理的であるに違いない。逆に、本能的な欲求を理性でコントールして考え行動を取捨選択する、その総体が本性であるとするならば、酒に酔った状態は本性ではない病的な状態で、シラフの状態が本性を取り戻した状態だ。
お酒だけでなく、病気や薬物や異常な環境に暴露された事によるストレスなどで、人間の認知は容易に歪む。その状態をその人間の本性だとして、その全人格を否定されたらいささか可哀想だろう。
さて、大乗仏教では人間は仏としての本性である仏性をもっているとされる。人はこの仏性が煩悩に覆われた状態で生きているから、間違いを犯すのだ。酔っぱらいの行動をみて、その人間の本性だと批判されるむき出しの本能は、仏教で言うところの煩悩と概ね同義だろう。仏教に不飲酒戒があるのもこうした理由かと思われる。
ところで、仏教の悟りは煩悩を滅した状態であるから、酔った時に顕在化する本能が煩悩と同義ならば、本能の無い状態では仏性が残ることになる。むき出しの本能が消滅したとしても理性は残るはずだが、では理性こそが仏性なのかという疑問が生まれる。理性も仏性と同様に人間に元から備わっているとされてはいるが、理性は教育により磨かれるものであり、仏性は余計な物を捨てた結果として現れるものだ。また、理性は人間にしか無いが、仏性は(宗派にもよるが)全ての生物や場合によっては非生物にも備わっているとされる。理性と仏性は似て否なるものだろう。
その辺は理性とは哲学的な発想であり、仏性とは宗教的信仰であるからそれでも良い。そもそも、生物学的に考えれば哲学が天賦の物とする理性だって後天的な訓練がなければならず、人はそれを取得しうる可能性を保有しているに過ぎない。また、人間と理性が不可分ならば、病気など何らかの事情で理性を取得し得なかった人間は人間で無いのかという疑念すら生じかねない。その点でいうと、仏性という考えは万人に優しくて良いと思う。
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