たすけたまへ、たのむ
部派仏教であれ大乗仏教であれ密教であれ、一般的に仏教は自分が修行して悟りを目指すのが基本であるが、浄土真宗では自力の修行を否定し阿弥陀如来の絶対他力にまかせる事を旨としている。自力を頼みとしないために慢心が抑えられる利点はあるが、作法や言葉の面で一般の仏教との乖離はあり、しばしば誤解の元となっている。
例えば、一般に神仏に向かって「たすけたまへ」「たのむ」と言えば何かしらの祈願をしていることになるが、浄土真宗の場合は違う。自分の望みを神仏に求めたのでは絶対他力にならない。真宗門徒の「たすけたまへ」は阿弥陀如来が一切衆生を助けるといっているのだから、「ああ、なら助けなさいませ」というような許諾のニュアンスであり、「たのむ」のはお願いしているのではなく阿弥陀如来の本願力をたのみ(頼り)にしているという帰依の表明となる。
現実的にいって阿弥陀如来に帰依していようがいまいが、世の中が自分の思い通りになることは無く、その本願力をたのみにするとは死後に浄土に生まれ仏になるとの確信であり、究極的なナンクルナイサーであると同時に自分の不甲斐なさを日々恥じ入るのだ。それゆえ自然に善いことをするようになる傾向はある。
だが、こういう発想なので浄土真宗的視点では祈願や祈祷は、他力をたのめない信仰心の低い行為だということになる。内輪でそう思うのは良いのだが、それを根拠に他宗派を攻撃するのはやめていただきたいものだ。
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