大きな主語としての仏教
一部の仏教関係者が「仏教では〜」という場合にそれが特定宗派に特有の考え方やお作法であることも多い。こうした言説は、他宗派の人からの反感を買いやすいが、各宗派とも仏教には違いはない。これは、何某宗何某派の仏教解釈を、仏教全体ではという意味に解釈するから起きる問題だと言える。その辺は不本意であっても内向きと外向きの言葉遣いは変えた方が誤解が少なくて済むだろう。
さて、では仏教ではという大きな主語を用いても許される範囲はどこまでだろうか?諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印については仏教ではと言っても問題あるまい。一切皆苦を足した四法印は、大乗仏教の常楽我浄との矛盾を指摘する意見があるものの、一般論としての一切皆苦は否定出来ないと思われる。だから、仏教ではとの主語の利用は四法印まではセーフだ。また、初転法輪で説かれたとされる四諦八正道も仏教ではと言ってよい。大乗仏教で最も有名なお経である般若心経では「無苦集滅道」との文言があり、四諦を無とみなすが、空は四諦に含まれる縁起の思想から演繹であり根本が異なる訳ではない。
では、大乗仏教の根幹である空や唯識はどうか?部派仏教からは否定されるだろう。しかし、日本で仏教ではといえば基本的に大乗仏教の事であり、日本ローカルの集まりで前後の文脈から大乗の話だと判っていれば、仏教ではと言っても良い。
それ以外の宗派的な話は、外向きには何々宗ではと注釈を入れた方が気遣いが出来ていると思う。
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