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事故物件

 事故物件が簡単に検索できる某サイトでその仔細を見ると、殺人や自殺のみでなく病死も含まれている。これにはいささか驚いた。自宅で死ぬ人が少なくなった現代、若者の視点では病院以外で死ぬ事は異常なのかも知れない。とはいえ、在宅で亡くなった方が全て事故扱いされている訳ではなく、主に独居者が死亡して発見が遅れた場合を事故として扱っているようだ。  そもそも、事故物件だったからと言って清掃などが済んでいれば、実用的な問題がある訳ではない。あまり、事故物件だと騒ぐのもいかがなものかと思う。第二次世界大戦では日本の都市部はさんざん空襲で焼かれそこら中に殺された死者がいたわけで、死者がいた場所が気味悪いなどと言って気にしだしたらキリがない。  死者も死んでからまで気味悪がられるのはなんとも気の毒というか失礼な話で、気にせず居住すれば良いのだ。入居を募集する時点で一通りの供養は済んでいるだろうし、もしどうしても気になるなら、自主的にご供養すれば良い。死者の冥福を祈って法要をするのは普通に善行であり自身の功徳にもなろう。  あまり事故物件だと騒ぐのはいわゆる心霊スポットなる噂を招き、死者への敬意を欠いた不心得者を生むのだ。けしからん。  

持続可能な菩薩行

 捨身飼虎では無いが菩薩行は身命を投げ打つのが本来的姿だとされる。まるで葉隠の説く武士道のようだ。  葉隠においてとにかく自分が死ぬ選択をすることは、命惜しさになすべき判断を誤らない為だ。誰しも生き残りたいから自分に利のある選択に何かしらの口実をつけて選んでしまいがちとなる。  ただ、武士道で命をかける局面は基本的に主君の為のみであるのに対して、菩薩は一切衆生を救うのだから死ぬべき場所はいくらでもある。もし、虎を助けるために我が身を餌にして与えるのを是とするならば、発心した菩薩は一日も生き延びれはしないだろう。  釈尊は苦行を禁止し中道を説いたのではないかという意見もあろうが、釈尊自身も悟りを開いた時の瞑想は悟りを開くまでこの場を立たないと誓ってのものであり命懸けであった。法華経にも有名な不惜身命の文言がある。命をかける事自体は悪くないが、だからと言って葉隠レベルで死のうとしていては大乗仏教を伝える者はいなくなるだろう。この状態で大乗仏教が滅びなかったのは、人が死にそうになっているのを放置する菩薩がいなかったからだろう。無茶をして死にそうになっている菩薩は仲間の菩薩が必ず助ける。僧伽が仏と法と並んで尊ばれるのは、そういう意味もあるのかも知れない。  つまり、菩薩行が持続可能な状態で修められる為には仲間の存在が大事だということだ。しかし、もし仲間がそばにいないのなら、まず自分が死なない様に努力すべきだ。仮に会ったことが無くても、あなたの幸せと生存を望む菩薩はいるのだから、その願いを無にするべきではない。程よく食べ、程よく休み、気力と体力を充実させておいた方が人助けも捗るというものだ。

理論と実践

口に誦するも身に行わざらば、当に何に喩うる所を得べき。 譬えば重病人に空しく薬の力を談ずるが如し。 (菩提行経 五・一〇九)  菩提行経にある上記の文言は、経典などを読んでもその内容を実践しなければ、病人に薬を与えずに治療法を知識として教えるようなものだというたとえです。  仏教の教えを受けなくても社会的通念や常識として何をすべきで何をすべきでないのかは多くの人は理解しているものです。ですが、刑法に触れないまでも善いことのみをして悪いことをせずに済む人は稀です。  野球で飛んできた球をバットで打てばいいと分かっていても、ちゃんとヒットさせるには練習が必要です。正しいことをちゃんと出来るように練習することが大乗仏教の修行です。完全に出来たら仏様なので、上手く出来なくてもめげずに頑張るしかないのです。

暴力団も良いことだってしているという論法

 犯罪的集団に対して、それらも良いことだってしているのだから一方的に叩いてはいけないとする意見がある。  確かにその集団を構成するどんな悪人であっても、少しは良い事をしているだろう。だが、そう言って彼らを擁護する人達は、世間の視点がわかっていない。犯罪集団の構成員が多少いいことをしていたとしても彼らを擁護する理由になるわけがない。ヤクザが地域住民に親切であっても存在が許されないのと同じことだ。  暴力団が暴力で私的な目的を達成しようとする反社会的な集団である時点で、社会の秩序に対する脅威でしかない。そんな暴力団が例えば地震の際に炊き出しや掃除をしたからと言ってそれが何だ?往々にしてそんな美談は犯罪組織の宣伝目的になされているだけだ。炊き出しするならすればいいし掃除するならすればいいが、社会が彼らに感謝して攻撃の手を緩めれば結果としてより多くの被害者を生むことになる。  暴力団だけでなく、ナチスだろうがオウム真理教だろうが同じことだ。彼らやその残党やシンパが何か良い事をしたからと言って擁護する要素は何もない。だがもちろん、そうした仲間から抜け出した個人に関しては更生の道もある。  この期に及んで、プーチンや習近平らの集団を擁護している人達はその辺の事を自覚してほしいものだ。

賢者アルヒドル

 クルアーンには賢者アルヒドルがムーサー(モーゼ)をやり込める話があります。  アルヒドルは船底に穴をあけたり、少年を殺したり、不義理な民の住む街の壁を修繕したりと、ムーサには意味不明の行動をとりますが、実はそれぞれに理由があったというものです。  アルヒドルの行動の理由というのは現代のリベラル的価値観では理由になって無いものばかりですが、これは神が正しいとするものであり、イスラム的には正しいのです。(アルヒドルの行いの理由は以下の通りです。船は貧者の物だったが王が強奪しようと狙っていたので沈めた。少年を殺したのは彼が不信心で親に反抗的だったから殺してより良い子が生まれるようにした。壁の修繕はその街にいる孤児が受け継ぐべき遺産で、孤児が成人した時に掘り出すように神が望んだから。)  現代の突飛な事をする人間にも、何かしら言い分はあるもので、よく話を聞く必要があります。理由を聞いても分かり合えるとは限りませんが、それで争いを回避出来る可能性があるなら必要なプロセスです。

レジ袋

 コンビニなどでのレジ袋廃止は市民には概ね不評だ。まず、不便であるし、その効果を疑う人もいる。確かに、海洋ゴミの問題はレジ袋だけでなくペットボトルなど他の分解されないプラスチック素材に関して幅広く考えなければならない問題であるが、まずは小さな一歩でも評価したい。プラスチックゴミが海洋生物に与える影響は大きい。しかも残留し続けるので、生態系への打撃は長期化する。その被害は当然ながら人間にも及ぶ。他人事ではない。  プラスチックはリサイクルしにくい素材でもあり、日本では2/3ほどは焼却処分されている。一部は焼却の際の熱を有効活用してはいるが、二酸化炭素の排出は増える。現在のようにプラスチック製品が溢れていると処理が追いつかない。プラスチック以外の素材で対応できる物にプラスチックを使わないでおこうとする動き自体は正しいと言える。  環境にプラスチックが流出しても自然に分解されるプラスチックの開発なども一部で進められているが、未だ商業ベースとは言えないし、本当に有効なのかも未知数だ。また、漁具などの耐久性を要求される製品には使いづらい。やはり、プラスチックを極力使わずに済むように努力するしかなさそうだ。プラスチックごみを出し放題で良いという意見には同意しかねる。  また、生産されたプラスチックが環境に流出しないように管理することも大切だ。だから、法治の行き届いていない独裁国の中国では世界の1/4の海洋プラスチックごみが排出されており最悪の海洋汚染の原因国となっている。独裁制は環境にも悪い。

ウイグル人強制収容所の目的

 中国による占領が続く東トルキスタンのウイグル人強制収容所から内部資料が流出し注目が集まっている。外国への渡航歴がある人間は逮捕しろとか、逃げようとする者は射殺しろとか、なかなかに恐ろしいことが書いてある。  中国共産党の言い分ではこの強制収容所は宗教的過激派などを再教育するための施設だとされているが、もちろんそんなのは嘘っぱちであり、ウイグル人の民族浄化を目指しているのは経過を見れば間違いないだろう。  ただ気になるのはその手段だ。収容所内では理不尽な虐殺もあると伝えられるが、もし片っ端から処刑するのならばあれだけ大規模な施設の維持は不要であり、中国はウイグル人を大規模に長期収容することで緩徐な民族浄化を目論んでいるように見える。また、拘束を免れたウイグル人女性に漢人の子を産ませたりもしており、中国共産党が目指すのは今のところ遺伝子レベルの民族浄化ではなく、ウイグル人の民族としての意識や言語を消滅させ、中国人と同化させることにあると思われる。  ただ、現状ではウイグル人の老人と子供を除く男性の大半は収監されていると思われ、残っている人達にも厳しい監視があるので、中国共産党がその気になればいつでも速やかに遺伝子レベルでの民族浄化も可能な情勢だ。彼らがそれに踏み切れないのは国際社会の目を気にしているからに他ならない。  世界的な問題が頻発する昨今、ややもすればウイグルへの注目度が下がりがちだが、ちゃんと注目して騒がないと彼らの命が危ない。