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大晦日

 皆様、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします。  実は今年は絵本を出す計画もあったのですが、諸事情で頓挫しました。いずれ機会があればまた挑戦したいと思います。  ブログの方も時勢柄コロナと陰謀論の話題が多かったように思います。なんとか穏やかな世になって欲しいものです。  生きている間は修行の身ですが、少しでも悪いことをせず善いことが出来ればいいなと思っております。  南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧

科学と仏教

 科学は言語で表現出来ない物は扱えない。人間の認識の外に何かしらの真理があっても、人間は五感で得た情報を統合して言語的に思考しそれを推測するしかない。人間は自己の認識の外に出ることは出来ない。  思考には言語が必要だ。非言語的思考もあるだろうが、論理的思考には言語は不可欠な存在だ。科学の限界はほぼ言語の限界に等しいと言える。言語に縛られない真理を扱うのは非科学的であり、概ね宗教の役割だ。宗教は科学の対極と思われがちだが、仏教は必ずしも科学とは対立しない。一部の部派仏教などは科学のことを無用なものと目の敵にしているがそれも歪んだ認知だ。  大乗仏教の唯識論では言語的な分別は妄想や執着に過ぎないとされる。人間が自己の認識の中に閉じ込められている存在である以上、言語で真理を正しく言い表すことが不可能だからだ。何者かに名前をつけて一般化すると認識は名前に引っ張られて正しく見ることが出来なくなる。例えば、何とか民族は敵だとか、坊主は丸儲けだとか、大学の先生は高慢だとか、そういう言語的な先入観に縛られると歪んだ認識しか出来なくなる。仏教の八正道の第一にして修行の目的でもある正見(偏見無く正しく物事を見る)は他の七つの正道と関連しているが、正見を得るために直接的に必要なのは第八番目の正定でありこれは非言語的な瞑想だ。仏教が偏見を嫌うように、科学の実験も偏見を断たねば誤った結果を出しかねない。自分の予想通りの結果であって欲しいとか、こうであったら業績が認められるとか、これで金儲け出来るなどという邪念が心にバイアスを生むのだ。煩悩を断つ仏道修行はきっと科学の発展にも寄与出来るだろう。  俗世間の日常生活も重んじる大乗仏教の視点では科学が発展し人々が幸せに生きやすくなるのは大変よいことだ。科学と仏教はお互いに対立すること無く助け合っていけるはずだ。科学者ならば分かるだろうが、科学実験には公正さや高い倫理性が要求される。科学者は仏教者に向いている仕事だと言える。また、世に仏法を説いても人々の空腹を救う事も病を治すことも出来ないが科学にはそれが出来る。素晴らしいことだ。

科学的に正しいという断言

 科学者は断言を嫌う。医学でも、例えば薬の効き目は偽薬との比較で統計学的に有意な差を持って有効であると思われたものや、既にある薬剤との非劣性をもって、効果があるモノとされる。絶対に効く薬ではないし、副作用も起こりうる。有効である可能性が高い、医者が処方するのはそういう断言できない薬だ。  一方で、医者が統計学的には効果が無いと思われるあるいは有害だと思われる薬剤を、医者の信念に基づき処方する場合がある。こうした処方は非科学的だと断言出来る。新型コロナウイルス感染症の患者にイベルメクチンやシクレソニドを処方するスカポンタンの医者は非科学的な呪術医と言っていいだろう。彼らは経験的にどうのこうの反論するが信用に足るエビデンスを用意してから文句を言うべきだ。  確かに、厳密な治験を経た統計的に効きそうな薬がなにかの間違いで実は全く効果が無い薬である可能性を完全に否定することは出来ない。しかし、それは実は私が記憶を失った空飛ぶスパゲッティ・モンスターだったという可能性を否定できないレベルのありえない話であり、通常はそんな馬鹿なことは無いと断言して構わない。  科学者は断言を嫌う。だから一般人に物事を説明する時に、煮え切らない自信なさげな印象を与えてしまう。有益性や危険性やそれを証明した方法などの仔細は別途説明するとして、少なくとも政治的には開口一番「科学的に正しい」と断言してしまった方が、科学を解せぬ人を誤った道から救うことになる。人口に占める科学リテラシーを持つ人間が少数派である以上は、科学的に正しいという断言は嘘ではなく方便というものだ。  また、一定の科学リテラシーを持っている人間にとっても、自分の専門以外の高度な分野に関しては理解が及ばない事がある。だから専門家はそうでない人に分かりやすく説明する技術が要求される。自分だけが理解出来る真実なんて検証しようが無い。表現出来ない物は科学的には無いのと同じだ。文章や図表や数式で表せる物しか取り扱えないのが科学の限界でもあるが、哲学的宗教的な真理の探求は科学の範疇ではないので気にする必要は無い。

仕事納め

 そろそろ仕事納めの時期です。小生は病院務めなので仕事納めは名ばかりです。病院はいつもよりスタッフは減り一般外来も閉鎖されますが年末年始も病棟や救急外来は24時間稼働しています。小生も年末年始期間の半分くらいは病院に泊まり込みです。病院は労基を守るように言ってます。しかし、緊急時に専門分野の人がいないと患者が死ぬので、それに備えてこちらが勝手に泊まるだけです。当然ですが実働分以外の超勤は付きません。宿舎は壁も薄く、暖房をつけていても寒いです。コンビニ飯をかっ喰らいつつ冬用寝袋を2枚重ねし硬い床で寝ると臥薪嘗胆の心構えが涵養される素敵な職場です。  とは言え、仕事納めが本当に仕事納めになっている職種もわりと少ないかと思います。みなさん過労死しないようになるべく休みましょう。  一部の右翼からは日本の医者は全く働かないとか、ただの風邪を大げさに騒ぎ立てているなどと罵倒されまくった1年でしたが、新型コロナウイルスは未だ十分に危険ですし、労働時間も過労死ラインを大幅に突破しているのでまあ勘弁してください。尤もほぼ不眠不休で何かを叩きまくっているネット戦士たちの活動時間には及ばないかも知れません。ネットで暴れている人達もたまにはゆっくり休んでみてください。きっと違うものが見えてきますよ。

美しい

 いわゆる美人は、世間から外見が美しいと評価されるだけではない。彼女らには様々な罵声が浴びせかけられる。ちょっと可愛いと思って好き勝手にやっているだとか、出世でもしようものなら美人だから引き立てられたとか、資産家と結婚すれば相手をたぶらかしたとか、そりゃあもう無茶苦茶な言われようをされる。さらに、次々と言い寄ってくるストーカーまがいの怖い男どもをいなす技も必要だ。そんな攻撃に耐える強い精神力と、実際に評判を落とさないための知性と教養を兼ねそ備えていないと美人は美人とは呼ばれないものだ。批判だけしている人間とは苦労の度合いが違う。実際に美人の方が社会的に優位な立場に立つのは遺伝的素養だけでなく、こうしたすさまじい努力の成果でもあるのは覚えておいてほしい。外見だけ良くても中身がアレならそんないい目にはあわない。外見という遺伝的要素は体力や知能などと同じで、それを持っているからというだけで批判されるいわれはない。  しかし、最近では人の外見を美しいと言うのも醜い者への差別だとしてルッキズムであると批判されるようだ。だが、美醜の判断というのは著しく主観的なものであり、ある人が美しいと思った物や者が、他の人にもそうである保証は無い。私が大学生の頃にこの世で最も美しいと信じていた女性は、同級生たちに言わせるとそうでもなかったそうだ。仏教者たるもの二項対立につながる偏見は避けるべきとの意見もあろうが、それが遍計所執性(言語に基づく分別で非実在)だと分かっていれば差し当たり問題なかろう。科学的視点でも美は絶対的な値として定量化される類のものではない。そんな曖昧な美について個人の感想すら制限されるのは人権侵害と言っても過言ではない。また、こうした美に関わる表現を完全に規制すべしとの思想は芸術の否定にもつながる。  一方、審美眼には大きな個人差があるとは言え、時代や地域によりある程度の傾向というものはあり、それで得をする人も損をする人もいるのは事実であろう。そこで損をした人は機会を平等にしても仕方がないので結果の平等を訴えるのも納得できる話ではあるし、それに同情した人がそうあるべきだと思うこともあるだろう。そういう人達が美を否定する価値観を持つのは自由だし、仲間内のコミュニティを形成するのも自由だ。だが、社会全体が美を否定するように強要するのは勘弁願いたい。美を主張する人は美が多様で相...

知の暴力

 暴力は直接的物理的な物だけではない。圧倒的な知的格差はそれを利用した暴力を生む。例えば認知症の患者様や知的障害のある人は、しばしば詐欺の被害に遭う。また、介護者から虐待を受けても確知されにくい。暴行されても上手く周囲に伝えられないし、介護者に口封じされるからだ。また、外見は親切そうにしている介護者ならば、知的障害のある被害者が虐められていると第三者に訴えたところでなかなか信じてもらえない。知的弱者は健常者に収奪されがちだ。  人間は残酷だが臆病でもある。知的弱者からは嬉々として収奪する人も、自分より圧倒的に賢い人間から騙され収奪されるのを恐れる。結果として自分の理解出来ない高度な話をする人を恐れるし、世界経済を動かす人を見ては自分が騙され収奪されているのだと妄想し憎悪する。  だから社会全体の知的レベルを向上させれば、妄想や陰謀論に取り憑かれる人は減る。その場合、知識を詰め込むだけでなく考え方をしっかり学ばせるべきだ。無知は恐怖を生む。知識を信じているだけでは発展性がなく予期せぬ事態に対応できない。より多くの人に分かりやすい教育が必要だ。昨今の反知性主義の陰謀論者の多さは戦後日本教育の敗北と言える。今や立法や行政に関わる人間の中にも下らない妄想や陰謀論に取り憑かれた人が散見される体たらくだ。  だが今日、陰謀論にハマっているのは概ね子供時代の教育制度が現在よりも歪んでいた中高年世代だから今の若い世代が大人になる頃には状況は改善するのかも知れない。とは言え現代の教育界にも問題は山積であり、引き続き改革はするべきだろう。

戦時中の浄土真宗教学

 昨日、 懐中名号 の話をした時に少し触れたが、戦時中の浄土真宗教学はかなり無茶苦茶だ。当時もかなりの数の浄土真宗団体が存在したので教学と括ってしまうのも乱暴かも知れないが、だいたいは阿弥陀如来と天皇陛下(国体としての日本)を同一視していた。阿弥陀如来としての権能まで勝手に期待された昭和天皇には同情を禁じえない。  また、日本を浄土とみなす説まであった。この世は穢土という浄土教の基本理念、換言された一切皆苦を根底から覆している。日本が浄土だといっても人は毎日死んでいるぞというツッコミには、日本人は肉体が滅びれば神になるから誰も死んでないとかいう理屈でゴリ押ししている。  さて、浄土真宗には特徴的な回向観がある。それによると回向には浄土に生まれようとする往相回向と、極楽浄土に生まれた仏が穢土に戻ってきて人々を教化する還相回向の二種類があるとされる。天皇陛下が阿弥陀如来で日本が極楽浄土で日本人が往相回向によって生まれた仏であるならば、その仏達は浄土日本の外の穢土に赴き人々を教化せねばならぬ。世界をあまねく浄土日本に組み込むのを是とする過激思想の完成だ。  こうして出来た浄土真宗過激派は極めてファナティックだった。さすがは一向一揆の末裔とでもいうか手段とか政治とかそんな自力のはからいを一切かなぐり捨てた、成功も失敗も何も分別しない暴力的なまでの信に没入するのを良しとしている。どうしてここまで過激になったのかを考えてみよう。まず、漢土の仏教では仏法(真諦)と王法(俗諦)、即ち宗教的な真理と世俗の常識は別にして考えるという真俗二諦という思想がありそれが日本にも伝わった。日本の、特に浄土真宗では仏法と王法はお互いに助け合うものとして重視していた。しかし、現実に存在する天皇陛下を阿弥陀如来に、日本を極楽浄土と捉えたことにより、世俗と宗教的真理が一体化してしまった。だから、本当なら自力のはからいでどうにかすべき世俗の問題も全て国の命令という他力を信じてまかせてしまうことになったのだと思われる。  真諦と俗諦は無駄に分裂していたのではなく、混ぜると危険だと先人は知っていたから分けていたのだろう。在家主義の大乗仏教では世俗から完全に離れるのは困難であり昔から似たような問題はあったはずだ。伝統には何らかの意味がある。目先の利益や雰囲気でやすやすと変更したら痛い目にあうものだ。