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カタカナ表記は侮辱的か?

 地名や人名などのカタカナ表記は侮辱的だとの意見があるが、個別の状況によりけりだと小生は考える。その理由を説明したい。  名詞に限らず、通常は漢字やひらがなで表記すべき言葉がわざわざカタカナにされる例で最も頻繁に使わられる用法は、小説や漫画などで外国人が喋っているのを表す時だろう。「ワタシ オナカ スイタ」とか「ゲイシャ!フジヤマ!テンプラ!」とか「ドーモ ニンジャスレイヤーデス」とかがこれに当たる。  外国人が喋る以外の、例えば地名でカタカナ表記が多用されるのは、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、トーキョー、フクシマ、などが挙げられるが、これもその用法を考えれば、外国人への認知度が高いからという意図が隠れている。だが、これはその地名の外国人への認知度が高くなった出来事に関連した意味も含まれるので不快に感じる人も出てくることになる。  ヒロシマやナガサキは原爆が投下された都市であり、世界的な認知が高まったから日本語表記もカタカナが使われるようになったと解釈できるが、ヒロシマやナガサキの記載は、広島や長崎との表記と違って原爆と密接に関連した印象が持たれる。自治体としての広島市もヒロシマとの表記を使う際は平和関連事業であることが殆どだ。第二次世界大戦末期の激戦地だった沖縄もこの流れでオキナワ表記の場合には平和活動関連の事が多い。このように、単に国際的な認知度が高いからだけでなく、地名のカタカナ表記は何かしらの意味や思想が込められている場合が多い。  特に福島のフクシマ表記がそうだ。カタカナ表記になったのは間違いなく原発事故以降のことであり、国際的な認知度が高まったからという以外に、ヒロシマ、ナガサキが原爆や被爆を連想させるのと同様にフクシマの原発事故による被曝を強調したいという人間の意思が込められている。だが、福島県内において深刻な被害が出たのはごく一部の地域であるにも関わらず、被曝を強調した言い回しであるフクシマという表記には心外に思う人も多いだろう。  トウキョウの場合は、単に日本の首都として有名でありオシャレ感を出すための表記として使われる場合が多く、それをダサいと思う人はいるが、不快に感じる人は少ない。  地名以外ではどうだろうか?侮蔑的な用法のカタカナと言えばネトウヨやパヨクが有名だ。ネトウヨはネット右翼の略称で、パヨクは説明すると長いが「ぱよぱよちーん」という挨...

心理的リアクタンス理論

 心理的リアクタンス理論とは1966年にジャック・W・ブレームによって唱えられた理論で、簡単に説明すると「押すなよ!絶対押すなよ!!」と言われると押したくなるあの心理状態のことだ。一般的に言うと、個人が特定の自由を侵害されたときに喚起される自由回復を志向した動機的状態だ。  最近では、新型コロナウイルス対策を無視して、マスクを着けない、ワクチンの接種もしない、密集・密閉・密接状態で騒ぐなどの行為に及ぶ人も多少いるが、彼らは強制に反対し自由を求める心理状態にあるのだと思われる。一方、大半の人が感染対策に関して心理的リアクタンスを生じないのは、その必要性を十分に理解していているからであり、また自由を制限しているものの本質は感染症であり、対策を強制しようとする社会では無いことを知っているからでもあるだろう。自由の回復のためには感染対策をするしかないのだ。  反ワクチンや反マスクのように極端に有害なものでなくても、人は何かしら規制されるとこうした反応を起こしがちだ。この応用として、よくバーゲンなどで見かける先着何名様に限り半額とかいう情報も、急がないと半額で物を買える自由を失うという制限に対抗する心理を人におこさせる罠であることが多い。こうして哀れな犠牲者はいらないものを買わせられるのだ。  また、独裁国においても、国民に対し強制や規制をしがちだが、彼らはその原因を外国や国内の反動勢力にもとめてることでうまく民衆からの抵抗を回避している。極論すれば、独裁国は敵がいなくなると困る政体でもあり、常に無実の敵を捏造し続ける。声高に誰かのせいで自由が脅かされているなどという煽り文句を聞いた時は、騙されていないか十分に検証すべきだろう。

八功徳水

 八功徳水といえば極楽浄土の水という話が有名だが、他にも倶舎論にその記載がある。  倶舎論に説かれる古代の世界観ではこの世の中央には須弥山というとても高い山がありその周囲を囲うような山があり須弥山との間に海がある。その山を更に囲う山が合計七つあってそれぞれの間に海がある。七つ目の山の外側が我々の知る塩水の海である外海で、須弥山に近い七つの海は内海と呼ばれ、その水は、甘く、冷たく、軟らかく(おいしく)、胃に軽く、きれいで、腐らず、飲んでも喉を傷めず、飲んでもお腹をくださない、という八つの優れた点があるから八功徳水と呼ばれていた。  阿毘達磨倶舎論の成立は4〜5世紀頃とされ、浄土教経典が成立した2世紀より新しいが、倶舎論の更に元ネタとなる発智論は2世紀前半の成立とみられ、また、倶舎論は浄土教などの大乗仏教が成立する以前からの部派仏教の教理のまとめであることを考えれば、八功徳水のオリジナルは浄土教以前に遡るとみていいだろう。お釈迦様が誕生された時にも八功徳水が湧き出てお母様のマーヤ夫人が身を清めるのに使ったとする言い伝えもある。安全な水の確保に難渋していた古代インド人のとっての理想的な水が八功徳水の伝説として残っているのかも知れない。  ちなみに浄土教の八功徳水は、浄く澄んでいて、清く冷たく、甘美であり、軽く軟らかく、潤沢にあり、おだやかで、飲むと飢えと病を癒し、飲んだ者の心身を健やかに育てるものとされ、倶舎論の八功徳水と若干効能が違い癒やしの効果が付与されている。浄土真宗で仏壇にお水をお供えしないのは、極楽浄土には潤沢にすごい水があるので娑婆の普通の水なんて供えられませんという発想らしい。  仏教におけるこうした水へのこだわりは、安全で潤沢な水の確保が大変であったか先人たちの苦労が生み出したものだろう。しっかり消毒されたきれいな水が蛇口をひねるだけで飲めるようにした現代科学とそれを生み出した人々の縁の積み重ねには感謝するしかない。こうした恵まれた環境に慣れきっているせいか、時々、山野で沢の水を直接飲む人がいるが、寄生虫などに汚染されている可能性があるのでやめた方がいい。どうしても必要なら濾過して煮沸してからにするべきだ。エキノコックスや、海外では恐ろしい住血吸虫もいる、各種の細菌やカビも油断ならない。安全第一で生きてまいりましょう。

悪気が無い人を責める人

 先日の 放生会 の話でも触れたが、迂闊に生き物を環境に放つと遺伝子汚染を起こす恐れが強く、各種イベントで行われる川への魚の放流などがしばしば問題視されている。  こうしたイベントだけでは無く、小型の水棲動物のペットは、哺乳類のペットに比べて飼えなくなったからと放流されがちではある。最近ではアメリカザリガニの様なメジャーなペットも特定外来生物に指定されており法的な規制も進んでいる。  ただ、特定外来生物などの指定が無くても、川や沼は独自の生態系があり、同種の生物でも川や沼ごとに遺伝子的には差があり、合法であっても迂闊な放流はやはり環境の遺伝子汚染を招きうる。  ここで問題となるのは、遺棄は論外であり批判も妥当であるが、イベント等での放流では遺憾な事に企画した側は良い事をしているつもりでやっている場合がほとんどだと言うことだ。彼らを批判する場合には相応の配慮も必要となってくるのだが、こうした場合の批判は著しく攻撃的である事も珍しくない。  環境保護の視点にたてば放流イベントの不備を指摘するのは当然で正しい行為だ。無責任な放流で多くの生物が絶滅しうるのだから、断固として止めるべきだ。それは間違いない。  では遺伝子汚染を招くような放流をした人達が、ああ良い事をしたなあという余韻に浸っている時に、環境保護の志に燃える活動家が鬼の様な形相で彼らを激しく罵倒したとしたらどうだろうか?罵倒だけならまだしも、お前らははじめから環境破壊を企んでいる極悪テロリスト集団だなどと内心まで決めつけてかかるのはいくらなんでもやりすぎだ。  そもそも、悪気がなく過ちを犯した人に対しては、まず落ち着いて、問題点を分かりやすく説明するべきだ。いきなり攻撃的に接しても聞く耳をもって貰えない。話を聞いてもらえなければ事態も改善されない。環境保護団体がなすべきは正義の暴力を振るって悪を叩き快感を得ることではなく、環境保護の精神を広めてより多くの人からの協力を得ることだ。もしかしたら攻撃的に騒ぎ立てることによって、環境保護団体に恐怖感をもたせ言うことをきかせようという戦略なのかも知れないが、それは間違っている。環境保護団体に強い反感を持つ人が増えれば、環境保護の理念に納得する人は減って、人為的な遺伝子汚染も自然のうちだとなどとする屁理屈の信奉者が増え、環境を保護するための法整備へ悪影響を及ぼす可能性もある...

等身

 お釈迦様の入滅から500年以上に渡り、お釈迦様の像は作られることはなく図示する場合は法輪などの象徴的なものが用いられていました。その後、1世紀頃のガンダーラ地方で仏伝を説明する際に人物のレリーフが用いられる様になったとされます。  当時のガンダーラ地方にはギリシャ人の定住もあり彫刻が盛んであったのも、仏像誕生に一役かったと思われます。レリーフに刻まれたお釈迦様はそれと分かるように他の人々より大きく彫られる傾向にありましたが、やがて単独の仏像として彫られた初期のガンダーラ仏は等身大であったとされます。  以後は等身の仏像だけでなく、お釈迦様の超人性を表して人間よりも大きな仏像が作られたり、運びやすい小型の仏像など様々な大きさの仏像が作られていきます。一方で、仏像建立の発願者や王族と同じ身長で仏像が彫られる風習も出来て、日本でも法隆寺夢殿の救世観音菩薩像や金堂の釈迦三尊像は聖徳太子の等身だと伝えられています。  仏伝のレリーフはお釈迦様の骨を安置し礼拝の対象であった巨大な仏塔の周囲に彫られたものでしたが、仏像の発明により礼拝の対象を地域や個人で所有することが容易となり、仏教の拡大に寄与したものと思われます。ご自宅の仏壇にある絵像や仏像もこうした歴史の積み重ねの上にあるのです。仏像が等身でなくても等身大の衆生を仏は見守っています。南無佛。

幽霊だって空である

 幽霊と言う物はもちろん物理的には存在しません。見る人の執着がそれを見せるのです。だから、幽霊だって縁によって存在するように見える空であり、その意味では私たち人間と大差はありません。  人ならぬ何かを見たり感じたりした時、後になってその時間に知人が死んだ事を知ってあれは知人の幽霊だったのか、などと語る怪談話はよく聞きます。こうした話の科学的に妥当な推論としては、まず見たものは精神疾患や思い込みや寝不足などの疲労から見えたパレイドリアや幻覚であり、その時間に知人が死んだのは単なる偶然でしょう。だが、それを見て知人の幽霊を見たと信じている人にとっては、その知人が何を伝えたかったのだろうかなどと考えたりもします。その人に科学的に妥当な説明をして納得し安心してくれれば良いですが、頭ではそうかなと思っても体感的に納得いかなければ、幽霊を見た人にとって幽霊は存在することになります。  つまり目撃者と死んだ知人の縁によって目撃者の脳内に幽霊が作られるのです。これは縁によって成り立つ仮初の存在であり、空だと言えます。私たち人間も過去からの縁により仮初に存在してる空です。幽霊も人間も空なのです。  家族や祖先の幽霊を見る場合は、故人の事を知っていたり言い伝えを聞いているから具体的に見るのであり強い縁のなせる技です。だから、家族などの幽霊を見てしまった場合は、その縁に想いをいたせば良いのです。生前の恩に感謝し、お経の一つでも供養してさしあげましょう。  お盆やお彼岸に家族の霊を見たと言う話もしばしば聞きますが、仲が良かった故人も悪かった故人も幽霊を見るほどの縁があったと言うことで、あまり怖がったりしないで問題ありません。

断惑証理

 断惑証理(だんわくしょうり)は読み下しでは、惑ヲ断ジ理ヲ証スル、となり迷いを断って悟りを得るという意味になります。一般的な仏教においては、修行して煩悩を滅して悟りを開くのがその目標なので、その事を言い表していますが、この単語は多くは浄土教系の宗派が、そんな事出来ないよね、と強調する時に使われる事が多いです。  法然上人は「無量寿経釈」で、断惑証理なきが故に生死を出づる輩なし、と言っており、「黒谷上人語灯録」でも、戒行において一戒ももたず禅定において一もこれを得ず智慧において断惑証果(断惑証理と同義)の正智をえず、として仏教の根本である戒定慧の三学の一つも達成不能だと言っています。浄土真宗の「報恩講私記」にも、断惑証理愚鈍の身成じがたく速成覚位末代の機およびがたし、とあります。  まあ、実際に短い人生で断惑証理など達成不能だとは思いますが、達成不能だからと言って努力を怠ってはいけません。最終的に他力に救ってもらうのは全然構いませんが、戒律はなるべく守る、禅定も真似事でもまずは実践してみる、煩悩だって消えないけど小さくできれば、不完全でもそこから得られる智慧だってあるでしょう。  人生、なにかを達成するには短すぎます。完全主義者はだいたい絶望しますから、気楽に生きましょう。