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お斎

 お斎(とき)は現代では法事の後に僧侶や参列者に振る舞われる食事の事で、古代インド仏教の昼食に由来します。漢語訳された時に朝食を粥(しゅく)、昼食を斎(さい)と呼ぶようになりました。古代の仏教では午後は食事を摂ってはいけなかったので、食すべき時という解釈から、日本では斎を「さい」ではなく「とき」というようになったと伝えられます。  お斎は精進料理であることが多いですが、昔ながらの伝統的なものの他に、その技術を応用して洋風に仕上げたりデザートを作ったりと日々進化しており多様性に富んでいます。宗派によっては一般の非精進料理を供与しても良いようですが、事前にお坊さんに確認しておくのがよいでしょう。  また、お斎は料理の技巧もさることながら、法事の後の会食であり故人を偲んだり仏縁を楽しむ意味合いが大きいとも言えます。とはいえコロナ禍の昨今、お斎の機会も随分と減っているでしょう。コロナ禍が過ぎ去ったあとにこうした文化が消えてしまわないようにしたいものです。  

陰謀論被害者の死を笑うな

 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、いわゆるコロナ陰謀論の信奉者にもコロナに感染したり中には死亡したりする人が出てきています。そんな人々に対して、自業自得だとかザマアミロなどと言う批判がしばしば見聞きされます。なるほど、彼らの無知による行動で公衆衛生や延いては自分とその仲間の命も危険に晒されていた訳ですから、そう言いたくなる気持ちはわかります。しかし、死んだ彼らも被害者なのです。一部の迷惑系YouTuberなどは別としても、感染を危険なものと知りつつわざと広めようとする悪い人間はそうそういません。陰謀論の信奉者は、コロナなんて嘘だワクチンは悪の秘密結社が配る毒だ等と信じ込み、自分や仲間達を守ろうとして、誤った知識に基づく破滅的行動をとっている訳であり、彼らの中では善いことをしているつもりなのです。  だから、生前の彼らが言った妄想やデマは社会の為にも否定し訂正するべきですが、彼らの死そのものは悼み冥福を祈るのが良いと思います。  真に責められるべきは、コロナの危険性を知りつつ、また社会が危機に直面した時に一定数の人々は安易で都合の良い物語を信じ込みやすいという事実も知った上で、そういう人達や社会の人々の命を危険に晒してでも、受けの良さそうなデマを吹聴しそこから莫大な収益を得ようとする詐欺師達です。  一部の医師や政治家も新型コロナウイルスに関するデマを吹聴して回って、不安に取り憑かれた人や知的弱者を騙し続けています。新聞社もコロナだけでなく様々なデマ本やデマ記事が載った雑誌の広告を平気で出しており、お金さえ儲かれば詐欺の片棒を担ぐことに何の躊躇も感じていない様です。非難し打倒すべきはこうした詐欺師達であるのを忘れてはなりません。

宇宙の広さと人の儚さ

 以前、 器世間 の回で話したように仏教の先人たちが想像した宇宙はそれ自体が輪廻転生すると考えていた。サイクリック宇宙論にも似たこの考え方が本当に正しいのかどうかは別として、仏教徒にとってこの世はずっと変化し続けるもので諸行無常だという考えは今に息づいている。また、器世間の広さに関しては直径2.7×10の46乗光年と想定していたと思われ、現代科学が想定する観測可能な宇宙の直径である930億光年よりはだいぶん広いが、表現に指数タワーを要する観測不可能な範囲も含めた宇宙の広さの推測値から比べると無に等しいレベルで狭い。この辺は巨大数の研究が未発達だった古代の想像力の限界だろうが、現代科学をもっても観測不能な領域の宇宙の広さは推測の域を出ないだろう。ともあれ通常の人間の感覚では無限に近い広さの世界を古代の仏教徒も想定し、同時に自らの小ささも実感してきたと言える。果てしなく広い宇宙からみると、地球や社会は微塵にもならない小さなものだ。実際に宇宙規模の力の前には人類など次の瞬間に絶滅してもおかしくはない。  地球上にあるどんなに確固としたように見えるものでも実はものすごく儚い。そんな中で無駄に争うことなく穏やかに過ごせるようにしたいものだ。だが、人の世は常に無駄な争いに満ちている。  一部の人は自分の愚かさに気づかずに誤った事を信じ、それを根拠に他人に怒りをもって襲いかかり、目先の小さい利益を貪る。そんなことで儚い地球の更に儚い人間の命を虚しく消費する。なんとも哀れだし、無駄な争いを引き起こす元ともなっている。もちろん、人が愚かなのは仕方がない。人は全知でも全能でもないからだ。だが、それから怒りと貪りを排すれば、話し合う余裕も出てくるだろう。  たまには星を見て自分の小ささを思い知り、自分は一体何をやっているのだろうと振り返ることも大切だと思う。

アシッドアタック

 アシッドアタックとは南アジア地方で多い犯罪で、被害者の顔面を酸で焼き肉体的な障害と精神的な打撃を与えることを企図した犯罪であり、その被害者の約八割は女性です。アシッドの名前の通り塩酸や硫酸や硝酸などの強酸が用いられることが多く、強アルカリは基本的に使用されないようです。強酸の方が入手が容易であるためとも言われますが、寧ろ強アルカリの方が身近な素材で合成可能だと思いますので、犯人がイメージだけで出来合いの強酸を使うのでは無いかと思います。  アシッドアタックは殺害や傷害よりも顔を焼いて当人に精神的打撃を与え、周囲への見せしめにすることが目的です。飛び道具とは違い近距離から攻撃する必要がありますが、その際に自分に酸がかかる事を避ける必要もあるので、身長が低く攻撃が外れても犯人の脅威となるような反撃をされる可能性が少ない女性が主に狙われることになります。  犯人の動機としては女性差別に基づく暴力や歪んだ価値観による懲罰によるものが多いです。また、武器の所持につき厳しい制限があるイギリスなどでは、通常の武器より比較的容易に入手可能な強酸が犯罪に利用されているとの説もあります。  さて、詳細な情報は当局が取調べ中ですが、日本でも先日アシッドアタックが発生しました。武器所持の制限に関しては日本も厳しい方であり、今後は毒劇物を使った犯罪の増加にも十分に警戒する必要があるといえるでしょう。また、犯罪の陰湿性からみて現行法で可能な量刑も軽すぎると思われ法の整備もお願いしたいところです。

ギャンブル依存症(嗜癖)

 報道で伝えられている様に日本国内でギャンブル依存症が疑われる人は2.2%にも及ぶとの調査結果が厚生労働省から発表された。これは2017年の日本医療研究開発機構の発表した0.8%を大きく上回り、調査方法に差があったとしても看過できない由々しき事態だ。  人は不安や緊張からの逃避で何らかの物質や行動に依存することがあり、社会情勢の悪化もこうした依存症の増加に寄与した可能性は否めない。今回の調査でも依存が疑われる人にはうつや不安傾向が強かったという。  依存は環境や生活習慣などのストレスだけでなく、物理的な障害でも起こりうる。例えば何らかの疾病や外傷で理性の脳とも言われる前頭前野が障害された場合も起こりうるし、パーキンソン病の治療などでドパミン作動性の神経を刺激することにより報酬系に異常が生じて起きる医原性の物もある。そういう事例もあるが、依存症患者の大半はそれ以外では健康な人だ。パッと見では区別はつかないし、知らないうちに自分や家族が陥らないとも限らない。  世の中には多種多様な依存症があるが、なかんずくギャンブル依存症については日本国内の津々浦々いたるところに、行政と癒着した違法の賭博場が大手を振って経営を行なっている。これが、依存症患者に悪影響を与えているのは自明であり、実際に上記の2.2%の依存症疑いの人が最も多くのお金を騙し取られたのはパチンコ・パチスロであったという。  パチンコ・パチスロは患者の依存してしまう病気に漬け込んでお金を搾り取り経済的に困窮させる。経済的に困窮した一部の患者はパチンコ・パチスロにお金を使うためには犯罪行為もいとわなくなり治安の悪化も招く。患者の治療も大事ではあるが、こうした病気に漬け込み人々を破滅に導くことで暴利を得ているパチンコ・パチスロは全力で破却すべき反社会組織だ。幸いにしてこうした反社の活動を容認している行政組織は、選挙の結果しだいで変えることが出来る。少しずつでもパチンコ・パチスロを滅ぼす決意を持った政治家を議会に送り、いずれは行政を動かしたい。  また依存症に陥るかもしれない個々人も、仏教徒らしく貪りから離れる修行だと思ってギャンブルから遠ざかるようにしたいものだ。逆にどうしても利益を貪りたいのならギャンブルは明らかに損得で考えるとマイナス要因でありやらない方が良いに決まっている。もし、みんながギャンブルにお金を使わな...

コロナとお寺

 コロナ禍のせいで一部の例外を除けばどこもかしこも不景気だ。特に観光業や飲食業や歌舞音曲などの芸事を生業にしている人は大変だろう。報道などではこれらの業種の人が行政への怨嗟の声をあげているのをよく見聞きする。一方、仏教寺院でも、この不景気の煽りを受けて収入がおよそ半減しているそうだ。いわゆる密を避けるために参拝客が減り、葬儀も小規模になりがちであり、なんといっても檀家の景気が悪ければ普通にお布施は減るものだ。しかも、お寺は飲食業などと違い持続化給付金の対象外だ。お寺に給付金を払うと政教分離の理念に反するというのが理由らしい。他業種の労働者と違い仏僧の多くはこうした苦境に対して、政治や社会を責めたりしない。貪りや怒りを避けるのは仏教の基本であるからだろうが、内心は思うところもあるのだろうと推察する。  ただでさえ経済的に青息吐息なお寺が多い日本の仏教界で、収入が半減すればもう存続の危機だ。しかも、一部の疫学者の予測ではコロナ禍は数年は続くと見られている。このままでは廃寺の増加は避けられまい。経済的に余力のある人はちょっと色をつけてご自身の所属するお寺にお布施をしてあげて欲しい。観光名所となっているような副業を手広くしている大寺院でも、文化財の維持には莫大な費用がかかるので、推しのお寺があれば授与品や祈願のネット申し込みなどを利用するのも良いと思う。  どんなにネットが発展しても地域の寺院は日本の仏教文化の担い手であり、なんとか守っていきたいものだ。

理想的な社会

 理想的な社会は実現可能でしょうか?少なくとも日蓮宗の信者はそれを目指しているのだろうと思います。ですが、恐らく人類滅亡のその日まで完全無欠の理想社会は実現しません。ならば、どうせ無理だと諦めてしまえば良いのかというとそんな事はなく、よりマシな社会を目指すのは大切です。その努力なしには社会はとことんまで腐ります。社会の秩序や治安が保たれているのは、それを維持しようとする多くの人々の努力があるからです。差別や偏見を是とする暴力的な人達がいくら増えようが力を増そうが、それに対する抵抗をやめてはならないのです。また、抵抗はしてもその人達を敵視してはいけません。彼らも可哀想な人達なのです。刑法に従って彼らが裁かれる時も、その更生や冥福を祈るようにしたいものです。