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持戒は苦痛か?

 持戒は仏教の基本的修行である三学の筆頭です。在家の大乗仏教徒であれば、五戒がそれにあたります。即ち、殺さない、盗まない、嘘をつかない、不道徳な姦淫をしない、飲酒をしない、の五つです。こうした禁止事項を守ることは、何でもかんでも自由にしたい人間にとっては苦痛であるかも知れません。究極的にはこの世の一切は苦痛であるとするのも仏教の根本的な考え方なので、たしかに持戒も苦痛なのかも知れません。  しかし、これらの戒を守る時に苦痛に感じるのは何故でしょうか?例えば、殺してやりたい人がいても殺さずにおくのは苦痛でしょうし、盗みたい物があるのに盗まずにおくのも苦痛でしょう、嘘をつきたいのに嘘をつかないのも苦痛だし、浮気をしたいのにしないのも苦痛で、お酒を飲みたいのに飲まないのも苦痛です。逆に言えば、殺したくも盗みたくも嘘をつきたくも浮気をしたくもお酒を飲みたくも無い時は、戒を守るのは苦痛ではありません。  つまり、戒を守るのに苦痛が多いのは自分の心に煩悩が多い状態であることになります。日々、持戒しているとその苦痛の度合で自分の煩悩の程度が図れるというものです。だから持戒が苦しくて苦しくてたまらない人こそ、その苦から逃れるために煩悩を抑えると良いのです。欲望のままに戒を破り続ければ、欲望はさらなる欲望を生みそれらが生み出す苦もとどまることを知りません。  自らの怒りや貪りにより苦痛が生まれる時は、戒の理念に反する事をしているかしようとしているものです。心の動きに注意を払い戒を守って参りましょう。

看脚下

  看脚下とは足もとに注意せよと言う意味でお寺の玄関などで木の板に書かれた 看脚下の言葉を 時々目にします。  履物をきれいに揃えるように促したり、段差でつまづかないように注意したりする気配りであると同時に、看脚下は自省せよいう意味も内包されており、玄関を出入りする度にその事も思い出す仕掛けでもあります。  昔、禅僧の一行が夜道を歩いていた時に、持っていた灯が消えてしまい真っ暗になりました。ここぞとばかりに禅の師からこの暗闇の中をどうするかとの問いが出されます。もちろん、この質問は禅問答として有名な看話禅であり、 暗闇の中の道というお題にどういう仏法的な真理を見出すかが重要になります。お弟子さんたちは次々とそれっぽい答えをしますが禅師は納得しません。最後のお弟子さんが「暗くて危ないから足もとに気をつけましょう!」と答えたのを聞き、師匠は満足したと言われます。  暗い道で足もとに注意を払うのは当然なわけですが、看話禅の公案として質問されると、師に褒められる回答をしようと欲をかいて、物事の本質を見ずに難しく考えてしまい簡単な事も分からなくなるものです。こうした煩悩から生まれる妄想から離れ自分の内外の状態に正しく注意を向けるのは仏教の八正道の一つ正念でもあります。人生は暗闇の中の道にも似ており、常に正念場なのです。

仏飯

 宗派によって差はあるが、日本の伝統仏教で仏壇に仏飯を盛る器は概ね足の高いものが使われる。盛られる仏飯の形にもバリエーションはあるが山型に盛る事が多い。これは山ではなく蓮の蕾を模しているとの説もあるが、奈良時代の頃の仏飯器はボウル状のもので蓋がついており、米を山型に盛るようになったのは後世のことだろう。当初の仏飯器は托鉢の鉢が原型であると思われる。  さて、そもそも仏飯は仏様に捧げられているものだ。これは仏壇に捧げられる仏飯でも本来同じことではあるが、宗派の教学が否定しても多くの日本人は仏壇に祖霊の存在を見ており、仏飯も本尊のみならず成仏して仏となった祖先に捧げられていると言える。  昔の仏飯器は前述の様に鉢のような形であり、それを日本の伝統的な食器である高坏を低くしたような台と組み合わせて使われていた。時代を追うごとに台の足は高くなっていき、徐々に鉢と台は一体化していって現在のような仏飯器となった。その方が持ちやすいからなのかも知れないが、神仏習合の歴史を考えるとちょっとした柱状の物を立てて祖霊に捧げるという意図があるようにも思える。そうすると仏飯の形も神道の盛り塩などにみられる山型の形状として祖霊の依代に見立てた可能性もある。また、仏飯器の足が急速に伸びたのは江戸期であり、寺請制度により庶民の家庭にも仏壇が祀られるようになった時期と重なる。儀式を正確に受け継ぐ努力をしている寺院よりも庶民の祭祀の方がより習合文化が生まれやすくなるのは間違いない。仏飯もお下がりとして家人らが食する事が多く、これは神道でいうところの直会と同じ事だ。これらの説が本当に正しいのかは断言出来ないが、明治維新までは神仏習合が当たり前であった事を考慮すればいくらかの影響があったと考えるのが自然だろう。

社会制度と不正行為

 生活保護や障害者年金の話をすると決まって不正受給が起こるからと制度そのものを否定したがる人が現れるが、これらの社会保障制度は必要不可欠なものだ。  人は誰しも大怪我や大病を患う事もあれば、やむを得ない理由で職を失う事も起き得る。そんな時に公的補償があると信じているから後顧の憂い無く日々働くことが出来るのだ。  こうした社会保障制度を不正利用する人は確かに存在し、そうされない為の対策も必要だが、不正利用する人がいるから制度自体を無くせと言ったり制度の適応を厳格にして門戸を狭めるべきだと言ったりする人は、その弊害も考えるべきだ。  そもそも、遺憾ではあるがこの世に不正利用が全く無い社会制度というものは恐らく存在しないだろう。不正を防ぐ手立てを講じた上で予測される不正利用の損害は織り込んで制度設計すべき話で、制度そのものを使いづらくしたり廃止するのは、その制度や法の理念を脅かすものだと言える。富の再分配を直接実行しているこれらの制度は倫理的に見ても維持されるべきだ。  また実利的な話では貯蓄する余裕に乏しい層への経済支援はそのまま市場をしげきし景気にも良い。逆に締め付ければ不景気が加速する。不景気で支援が必要な人が増えている時こそ寧ろばらまくべきだ。

反政府バイアスと反野党バイアス

 個人的に記憶にある範囲で、手放しで称賛できる政府が日本に存在したことはない。いくらかは良い政府があった時も何かしらの問題は存在した。だが、それこそが正常な状態であり、完全に無謬な政府が実在するとしたらオカシイのはそう感じる自分の認識の方だとみてほぼ間違いないだろう。  一方で、世の中には政府の主張や行動が全て誤っているとのバイアスを強固に持つ人もいる。物事は是々非々で考えられるべきなのだが、このバイアスに取り憑かれている人は、政府が常に間違った判断をするとの認識を持っており、その全てに反対する。これは政府の無謬を信じるのと同じレベルで困ったバイアスだ。  こうした反政府バイアスとでも呼べる現象は、政権の支持率が低下するに従いその力を増していく。選挙で選ばれ多数を取った政党が間接的に作ったはずの政権の支持率が極度に低下するのは多くの失政を繰り返した結果であると言える。そんな政権は信用するに値しないというのはある程度は正しいのだが、政権が何をしても盲目的に否定するのは流石にバイアスと言ってよいだろう。  例えばオリンピックの賛成反対について、状況を考えてオリンピックは行うべきで無かったから政府を批判するのは良いが、政府に反対だからオリンピックにも反対するという思考はおかしく、逆に状況を考えてオリンピックを行うべきだと考える人が政府を支持するのは良いが、政府を支持するからオリンピックも支持すると言うのは本末転倒だ。  コロナ対策にしても、少なくとも私は政府の対応は良くなかったと考えているからこの件について総合的には政府を支持しないが、では政府の対策が完全にダメだったかというとそうでもない。少なくともワクチン接種を推進しようとはしている点などは一定の評価が出来る。このような一つの問題に関してだけでも、全てが正しいことも全てが間違っているということはない。いけない点は指摘して改善を促し、良い点は伸ばす様に支援するのは当然だ。  こうした問題は政府や与党だけではなく、野党に対しても言える。野党が言うことは無条件に全てダメだとする考えを持つ人も結構な数存在する。  特定政党をカルト的に支持していると、支持政党のミスには目をつぶりがちになり、対抗する政党が良いことをしててもそれを妨害しようとするようになる。別にどこの党員であってもそれ自体は非難すべきことではないが、こうしたバイア...

口中の斧

 あまり強い言葉を使ってはいけないのは弱く見えるからではなく、無用な争いを招くからです。自分が荒々しい言葉を使わないようにこころがけるだけでなく、他者からの脅迫や恫喝にも平常心を保つようにこころがけたいところです。  南伝仏典のスッタニパータの第657偈に次のような物があります。  人が生まれときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を切り割くのである。  言葉は容易に自分や他人のことを傷つけるものだから、口は慎むべきなのだと言えます。ところで、スッタニパータにはこの偈文の前フリとして修行僧コーカーリヤの話があります。  コーカーリヤは舎利弗尊者と目連尊者が邪心を持っていると疑念を持ちお釈迦様にそのことを告発します。お釈迦様はそのようなことを無いからそんな事を言ってはならないと三度たしなめますが、コーカーリヤはお釈迦様の言う事をききませんでした。そうするとコーカーリヤは皮膚病を患い絶命して地獄に落ちたという話です。  さて、この話でコーカーリヤは無実の罪を舎利弗尊者と目連尊者にきせようとした訳ですが、それが悪意であったのか事実誤認であったのかまでは明らかでなく、また、告発時も舎利弗と目連に邪念があり悪い欲求にとらわれていると言っただけで、そんなに強い言葉や罵りの言葉を用いてはいません。この程度で地獄におとされたらたまらないなと言うのが正直な印象ですが、この話では正しい人を悪く言うなという事を強調したかったのだと思われます。続く658偈ではそしるべき人を誉めて誉めるべき人をそしる事を、659偈では聖者への悪意を、それぞれ戒めています。  思えば今年は、アメリカ大統領選や新型コロナウイルスやオリンピックなどの諸問題に対して意見の違う人を激しく罵る人が多く見られます。その中には、科学的倫理的に妥当性のある意見を発信する人に対して、荒唐無稽な妄想を持って彼らが悪いことをしていると罵ったり暴力に訴えたりする人達もいます。口の中の斧はやがて陰謀論者たちを傷つけることでしょう。また、正しい側もあまり相手を激しく罵るのはやめた方がいいように思います。少なくとも私にはコーカーリヤが苦しんで死んで地獄におちる程の事をしたとは思えません。事実を正しく認識出来ない弱者をあまり苛烈に責めるのは可哀想です。悪事は止めなければなりませんが、何が正しいかを理解で...

被害妄想

 例えば公共の場でたまたま小指でスマホを操作する人を見かけたとしよう。その人は元から小指で操作する人なのかも知れないし、ちょうど他の指が汚れていたのかも知れない。だが、その行為を自分に対する侮辱だと確信する人がいたらそれは被害妄想の可能性が強い。  こういう妄想は病的なもの以外に、洗脳によっても惹起せしめる事が可能だ。洗脳は国家による場合もあるが、特定の人種や民族や国民等に対するヘイトに基づく被害妄想は必ずしも組織的な扇動によらずに集団の個々の構成員が持つ疑心暗鬼がエコーチェンバー的に増幅されて起きることもある。  こうした妄想に取り憑かれると、何とか人や何某民族が組織的に自分達を狙っていると考え、日常にある全く無関係なものも自分達を狙う悪意のサインだと解釈し、その無意味なサインに激怒して実際にヘイト行為を実施したりもする。危険だ。  そして、こうしたヘイトにさらされた側も対抗するかのように妄想を育てていき、報復が報復を招くのだ。理不尽ないいがかりに屈服も隷属もする必要は無く反論はすべきだが、同じような妄想でし返すと無益な争いは終わらない。  妄想とそれによる戦いを終わらせるには、忍辱と持戒と精進が重要となる。