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夏越の大祓と仏教

 今日は夏越の大祓です。大晦日の大祓と並んで神道の重要行事の一つです。神道では罪や穢れを祓い清めれば、祖先から受け継いだ清い神性が残ると考えられており、半年に一度の払いの儀式はとても重要視されます。この発想は客塵煩悩を除けば仏性が現れるとする如来蔵思想に通じるものがあります。  さて、夏越の大祓といえば茅の輪くぐりですが、祇園さんとして有名な八坂神社の祭神であるスサノオノミコトには茅の輪にまつわる次の昔話が伝わっています。  ある日のこと武塔天神という神が旅の途中に、裕福な巨旦将来という人の家に泊めてくれるようにお願いしましたが断られてしまいます。武塔天神は、その裕福な巨旦将来の兄で貧乏な蘇民将来の家を訪れたところ、蘇民将来は武塔天神を歓迎してもてなしました。武塔天神は実はスサノオノミコトで、蘇民将来に茅の輪を腰につければ疫病を免れることを教えてくれました。こうして蘇民将来の一族は疫病を免れました。  現在、神社でくぐられる茅の輪はこのお話が元となっていると言われます。武塔天神=スサノオノミコトを主神とする京都八坂神社の有名な祇園祭りも疫病の原因と考えられていた怨霊を鎮めるために行われる祭りです。  夏の大祓は半年の間に溜まった穢れを落とすと同時に、無病息災を祈る祭でもあるのです。  さて、八坂神社の祭神はスサノオノミコトですが、先にお話した武塔天神と同一視されており、武塔天神はまた牛頭天王と同一視されていました。廃仏毀釈以前は八坂神社の祭神は牛頭天王だったのです。牛頭天王は薬師如来の垂迹と考えられており疫病退散にはご利益がありそうな神です。この牛頭天王は、お釈迦様の活動拠点の一つであった祇園精舎の守り神とも言われます。八坂神社の夏の祭が祇園祭なのも祇園精舎に由来しています。  古代インドの夏に祇園精舎に籠もって修行した僧侶たちを疫病から守った牛頭天王、そのゆかりの茅の輪をくぐって人々は夏の大祓に健康を祈ったのです。

居士仏教

 清朝の末期、漢土では居士仏教が流行った。  清朝は満洲の女真族により作られた王朝でチベットやモンゴルと同様にチベット密教が篤く信仰されていた。満洲の語源は文殊菩薩の文殊であるとの説もあるほどだ。このため清朝皇帝もチベット密教の施主であり、当初その立場はチベット密教の法王の方が上であったが、チベットが最後の遊牧騎馬民族帝国ジュンガルに占領され、そのジュンガルを清朝が倒すと立場が逆転してしまった。チベットは自治を保てたものの清朝がしばしば政治的宗教的な介入を行うようになった。また、同じく清朝の占領地の漢土でも僧侶の還俗が進められ代々漢人王朝によって発行されていた国家公認の僧侶の身分証明である度牒も廃止してしまう。  こうして、清朝では寺院の力は弱まり多くの元僧侶が俗世間で生活するようになった影響もあり、清朝時代の後半になると、主に漢土で在家信者による仏教が盛んになった。これが居士仏教だ。フットワークの軽い在家信者の活躍もあり、この時代に漢土から失われた経典を海外から取り寄せ研究が進んだ結果、清朝末期には教、律、禅、浄を統合した新宗派の馬鳴宗が出来た。この宗派は馬鳴の大乗起信論を重視しており、全てに内在する一心の法体で真如生滅の二門を建てるとする一心二門の考え方(如来蔵思想の一種で、全てに存在する法身が真如の世界と我々の住む仮の世界を作っているという感じの見解)で既存の禅や浄土教などを融合させようとした。こうした居士仏教の諸宗横断的な融合の流れが、後に中華民国の人生仏教や中華人民共和国の人間仏教にも影響をあたえたと言える。  仏教界に圧力が加わると、対抗して新たな活動が生じるはどの国でも同じで、例えば日本の鎌倉仏教では、法然、親鸞、日蓮など流罪に処された僧侶は流刑先でも布教に勤しみ新たな勢力を形成することに成功している。また、明治期の廃仏毀釈により寺院の力が衰退し、多くの僧侶が還俗を強制された結果として、多くの在家信徒が組織的に社会活動を行ったり、危機感をもった諸宗派や学者の協力で大正大蔵経が編纂されたりもした。近代的な仏教系の大学や学校が組織されたり、仏前結婚式などが編み出されたのもこの苦難の流れからの産物と言える。  今また少子化人口減などの危機が日本仏教界を襲っているが、関係者の多くが頑張って色々考えているので乗り越えていけると信じる。

見て見ぬふり

 イジメでも社会悪でもそれをとがめると、今度は自分が標的になるかも知れないからと見て見ぬふりをした経験は多くの人にあるのではないだろうか?  昔はヤクザにみかじめ料を払わなかったばかりに見せしめで惨殺されたり大怪我をする人もいた。そんな中では大半の飲食店経営者はヤクザを恐れてみかじめ料を払っていた。その後、政治や治安当局の努力もありヤクザが弱体化すると、みかじめ料を払わない人が増えた。これはヤクザが弱くなった結果として当局の力が相対的に増強されたからだ。大人社会も子供社会も多くは暴力のバランスで動いている。また、経済力や政治力や社会的発言力も暴力となりうることを忘れてはならない。  だから、暴力に屈せず空気も読まずに見て見ぬふりをしない人間は勇者だ。それがたとえその場の秩序を乱したとしても勇気ある行動だ。その結果、どんな社会的な不利益をこうむっても、怪我をしても、命を落としても、その人は勇者だ。  荒唐無稽なデマを信じる陰謀論者達がいかなる暴力的な嫌がらせを行ってきても、当局がそれを放置していても、真実を曲げない勇気が人々に行き渡るように祈る。

キルケゴールと親鸞

 キルケゴールと親鸞はよく似ている。二人とも完全を目指した結果、それが不可能だと知って絶望し、その絶望を覆す可能性を自分以外の他の存在に求めて、既存の形式化した宗教を批判した。  キルケゴールが頼った神も、親鸞を救った如来も、はじめに二人が途轍もなく深い絶望を体験して無ければ見えなかったに違いない。人生や世界に絶望していない者、あるがままに生を謳歌している者や人生なんてそんなものさと全てを諦め受け入れている者は、神や如来の救いを欲さないからだ。  この世をあるがままに観る事ができる者は仏教的には悟ったと言ってよく改めて救われる必要は無い。むしろ救う側だろう。しかし、何の悩みもなく人生を楽しんでいる人が、はたして悟っているかというと殆どの場合はそうではあるまい。気づかなかった絶望が死の直前に現れる恐れも強い。  はたから見た時にキルケゴールは悲劇的な人生だったように見えるし、親鸞は色々あったが満足して死んだように見えるが、死に先んじて絶望と格闘し答えを見出していた彼らはどちらも救われたに違いない。  彼らの絶望は人間の小さすぎる限界に由来するが、これは逆に言うと彼らが人間として分不相応な「かくありたい」と言う理想を持っていたから感じる絶望でもあっただろう。キルケゴールの言う死に至る病たる絶望は自力では逃れがたいし、親鸞も臨終の一念に至るまで煩悩は絶えないとしていた。こうした認識がある以上は救いに他力は不可欠となる。キルケゴールはヘーゲルを批判したことでも有名だが、これは親鸞が自力の仏道を批判したことにも似ている。ヘーゲルの人間はどんどん進歩していずれは理想に至るとする発想は、法華経の教えに似ている。人間の矮小な限界を確信した人間には実践も許容もできないだろう。  仏教も哲学も時代に応じて様々な教えが説かれてきた。色んな人に合う教えはきっとあることだろう。その全てを空とみればみんな違ってみんないい。

大智度論と禁酒

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 お酒を飲んではならないとする不飲酒戒は仏教の初期からあり、昔から規制しないとお酒で道を踏み外す人が多かったのだろうと思われます。キリスト教では飲酒は禁止されていないものの好ましくないとの考えが主流で、イスラム教では明確に禁止されていますが、いずれの文化圏でもアルコール飲料の撲滅は出来ませんでした。有史前から作られてきたお酒の底力は強く、単に発酵させるだけではない製造工程が複雑な蒸留酒ですら3300年前のエジプトで作られており、人類の酒類にかける情熱には凄まじいものがあります。しかし、そのおかげで今回の感染症騒ぎでも消毒用アルコールはさほど不足せずに済んでおり、世の中なにが幸いするか分かりません。  さて、大乗仏教の祖とも言うべき龍樹菩薩の作とされる般若経の注釈書・辞典である「大智度論」の中にも飲酒の罪について書かれた項目があります。そこではお酒を次の三つに分類しています。すなわち、穀物から作る酒、果実から作る酒、薬草を混ぜて作る酒(乳から作る酒も含む)です。更に、乾燥したものと湿ったもの(飲料以外のアルコール含有の食物のことかと思われる)、澄んだ酒と濁った酒にも分類して、これら全ての摂取を禁止しています。  一言でお酒は飲むなと言えば済むものを細々と分類しているのは、恐らく当時も不飲酒戒に対して、薬草入りなら良いのでは?とか、馬乳酒はお酒に含まれますか?とか、ワインは酒じゃねーとかの意見や反論があったと思われ、龍樹も「やかましい全てダメだ」と言いたく一々分類したのかも知れません。  大智度論の飲酒の罪の項目では続けて、お酒は身体が冷えるのを防ぎ、健康に益して、気分も良くなるのになぜ飲んだらダメなのかとの質問が書かれており、それに対して答えて、酒の益は少なく害が多いから飲んではならない、酒は毒入りの美味しい汁のようなものだと書かれています。  日本では俗に空海が多少の飲酒を認めたとも言われていますが、空海の御遺告でも基本的には飲酒を禁じており、例外として病人の治療としての飲酒を認める「治病之人許塩酒」という文言があるのみです。  空海はお酒の薬効をいくらかは認めていたようですが、飲酒は肝臓や膵臓に悪いだけでなく、酔って転倒などの事故を増やします。冗談抜きで転倒が原因で死んだり寝たきりになる人は多いので気をつけましょう。適量の飲酒なら動脈硬化に良いとの意見もありますが...

円頓章

 円頓章は、天台宗の祖である智顗の止観(瞑想)の講義を弟子の灌頂が後世に書き伝えた名著「摩訶止観」の序にある文章です。「摩訶止観」で語られる、完全で直ちに悟りに至る円頓な止観の意味をまとめたものとなっており、灌頂の師匠への想いがあふれる名文です。  天台宗は法華経を中心とした信仰であり、「摩訶止観」は法華経の世界観に準拠した座禅のような物です。天台宗だけでなく同じく法華経を奉じる日蓮宗にも影響を及ぼしています。  円頓章のはじめにも法華経は強調されており、その冒頭の「円頓者 諸縁実相」の実相は法華経の説く諸法実相です。諸法実相とは、全ての存在はありのままで真実の姿であるという事です。つまり、全ての存在は原因と結果のつながりの上に成り立つ実体のない空として仮に存在しており、空と仮の存在の見方は別の物ではないとして、一つの心で差別なく世界のすべてを空、仮、中道として観る三諦円融が重要だと言っている事になります。  その上で、全てのものは真実であるのだから捨てるべき苦は無く、苦の原因とされる無明や煩悩も悟りにつながっておりこれを断じる必要もなく、煩悩に基づく偏見や邪見も中道の正しい見解に連なっているから煩悩を滅する修行がある訳でもなく、この生死の世界こそが仏の悟りを実現した世界なのだから煩悩を滅し苦を滅して悟りを証する必要も無い、と説かれています。煩悩即菩提、生死即涅槃の考え方です。  これは一見すると仏教思想の根幹である苦集滅道の四諦を否定しているように見えますが、別に何もしなくていいと言っているのではありません。止観(瞑想)のしかたを書いた本の冒頭の文章なのですから少なくとも止観をするのは当然です。この止観によって、自分の苦や煩悩や世界をありのままに真実として観られるようにするわけです。  こうしてみると止観は禅宗の座禅とは違い、法華経に従った明らかな方向性を持っていると言えます。この文章に続く「摩訶止観」自体も非常に体系だった書であり、パッと見に何を言っているのか意味不明である禅宗の公案集とはかなり毛色が違います。この辺は各宗派の思想の差が表れており興味深いところです。

義勇兵役法

 昨日は沖縄終戦の日だったが、6月23日はもう一つ記憶に残すべきことがあった日だ。昭和20年6月23日は義勇兵役法の公布日でもある。  この時の日本陸軍の主力は中国などの外地にあり、かつ既に制海制空権を喪失した日本には本土を守る兵力を輸送することも出来なかった。このため、俗に根こそぎ動員と呼ばれる徴兵を行ったが足りず、沖縄陥落のこの日ついに、男性の15〜60歳、女性の17〜40歳までの全員を戦闘部隊に編入できるようにする義勇兵役法が公布された。なお、この法律では志願兵には年齢制限を設けず、文字通りの総動員体制がとられることとなった。総兵力として3千万人の動員を目指していたともいう。  沖縄戦は日本が敗北したとはいえ、長期化し米軍にも多大な被害が生じた。このことから米軍は対ドイツ戦の時のような全土占領による完全勝利を目指すだけではなく、日本との講和も検討するようになった。  しかし、この沖縄戦での日本軍の粘りの大きな要因は民間からの事実上の徴兵・徴発や、民生を考慮しない徹底抗戦が生んだ結果であり、本土決戦の決号作戦は沖縄戦と同じことを本土で計画したともいえる。帝国政府の目論見は、ひたすら戦争を長引かせて条件付きの講和に持ち込みたいというものであった。  しかし結局、決号作戦は発動される事無く終戦を迎えたのは周知の通りだ。これは昭和天皇の決断や原爆投下やソ連参戦の影響が大きいが、米軍も日本本土で巨大な沖縄戦を再現したく無かったのは間違いない。米軍がやる気ならわざわざ戦争の最終盤でポツダム宣言など送っては来なかっただろう。沖縄戦の多大な犠牲の上に米軍の躊躇が生まれ、本土で沖縄戦の悲劇が再現される前に講和が成立したのだから、牛島中将では無いが沖縄には本土から格別のご高配があってしかるべきだろう。地政学的にどうしようもないこともあるだろうが、物心両面での支援を惜しむべきではない。