円頓章
円頓章は、天台宗の祖である智顗の止観(瞑想)の講義を弟子の灌頂が後世に書き伝えた名著「摩訶止観」の序にある文章です。「摩訶止観」で語られる、完全で直ちに悟りに至る円頓な止観の意味をまとめたものとなっており、灌頂の師匠への想いがあふれる名文です。
天台宗は法華経を中心とした信仰であり、「摩訶止観」は法華経の世界観に準拠した座禅のような物です。天台宗だけでなく同じく法華経を奉じる日蓮宗にも影響を及ぼしています。
円頓章のはじめにも法華経は強調されており、その冒頭の「円頓者 諸縁実相」の実相は法華経の説く諸法実相です。諸法実相とは、全ての存在はありのままで真実の姿であるという事です。つまり、全ての存在は原因と結果のつながりの上に成り立つ実体のない空として仮に存在しており、空と仮の存在の見方は別の物ではないとして、一つの心で差別なく世界のすべてを空、仮、中道として観る三諦円融が重要だと言っている事になります。
その上で、全てのものは真実であるのだから捨てるべき苦は無く、苦の原因とされる無明や煩悩も悟りにつながっておりこれを断じる必要もなく、煩悩に基づく偏見や邪見も中道の正しい見解に連なっているから煩悩を滅する修行がある訳でもなく、この生死の世界こそが仏の悟りを実現した世界なのだから煩悩を滅し苦を滅して悟りを証する必要も無い、と説かれています。煩悩即菩提、生死即涅槃の考え方です。
これは一見すると仏教思想の根幹である苦集滅道の四諦を否定しているように見えますが、別に何もしなくていいと言っているのではありません。止観(瞑想)のしかたを書いた本の冒頭の文章なのですから少なくとも止観をするのは当然です。この止観によって、自分の苦や煩悩や世界をありのままに真実として観られるようにするわけです。
こうしてみると止観は禅宗の座禅とは違い、法華経に従った明らかな方向性を持っていると言えます。この文章に続く「摩訶止観」自体も非常に体系だった書であり、パッと見に何を言っているのか意味不明である禅宗の公案集とはかなり毛色が違います。この辺は各宗派の思想の差が表れており興味深いところです。
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