居士仏教
清朝の末期、漢土では居士仏教が流行った。
清朝は満洲の女真族により作られた王朝でチベットやモンゴルと同様にチベット密教が篤く信仰されていた。満洲の語源は文殊菩薩の文殊であるとの説もあるほどだ。このため清朝皇帝もチベット密教の施主であり、当初その立場はチベット密教の法王の方が上であったが、チベットが最後の遊牧騎馬民族帝国ジュンガルに占領され、そのジュンガルを清朝が倒すと立場が逆転してしまった。チベットは自治を保てたものの清朝がしばしば政治的宗教的な介入を行うようになった。また、同じく清朝の占領地の漢土でも僧侶の還俗が進められ代々漢人王朝によって発行されていた国家公認の僧侶の身分証明である度牒も廃止してしまう。
こうして、清朝では寺院の力は弱まり多くの元僧侶が俗世間で生活するようになった影響もあり、清朝時代の後半になると、主に漢土で在家信者による仏教が盛んになった。これが居士仏教だ。フットワークの軽い在家信者の活躍もあり、この時代に漢土から失われた経典を海外から取り寄せ研究が進んだ結果、清朝末期には教、律、禅、浄を統合した新宗派の馬鳴宗が出来た。この宗派は馬鳴の大乗起信論を重視しており、全てに内在する一心の法体で真如生滅の二門を建てるとする一心二門の考え方(如来蔵思想の一種で、全てに存在する法身が真如の世界と我々の住む仮の世界を作っているという感じの見解)で既存の禅や浄土教などを融合させようとした。こうした居士仏教の諸宗横断的な融合の流れが、後に中華民国の人生仏教や中華人民共和国の人間仏教にも影響をあたえたと言える。
仏教界に圧力が加わると、対抗して新たな活動が生じるはどの国でも同じで、例えば日本の鎌倉仏教では、法然、親鸞、日蓮など流罪に処された僧侶は流刑先でも布教に勤しみ新たな勢力を形成することに成功している。また、明治期の廃仏毀釈により寺院の力が衰退し、多くの僧侶が還俗を強制された結果として、多くの在家信徒が組織的に社会活動を行ったり、危機感をもった諸宗派や学者の協力で大正大蔵経が編纂されたりもした。近代的な仏教系の大学や学校が組織されたり、仏前結婚式などが編み出されたのもこの苦難の流れからの産物と言える。
今また少子化人口減などの危機が日本仏教界を襲っているが、関係者の多くが頑張って色々考えているので乗り越えていけると信じる。
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