キルケゴールと親鸞

 キルケゴールと親鸞はよく似ている。二人とも完全を目指した結果、それが不可能だと知って絶望し、その絶望を覆す可能性を自分以外の他の存在に求めて、既存の形式化した宗教を批判した。

 キルケゴールが頼った神も、親鸞を救った如来も、はじめに二人が途轍もなく深い絶望を体験して無ければ見えなかったに違いない。人生や世界に絶望していない者、あるがままに生を謳歌している者や人生なんてそんなものさと全てを諦め受け入れている者は、神や如来の救いを欲さないからだ。

 この世をあるがままに観る事ができる者は仏教的には悟ったと言ってよく改めて救われる必要は無い。むしろ救う側だろう。しかし、何の悩みもなく人生を楽しんでいる人が、はたして悟っているかというと殆どの場合はそうではあるまい。気づかなかった絶望が死の直前に現れる恐れも強い。

 はたから見た時にキルケゴールは悲劇的な人生だったように見えるし、親鸞は色々あったが満足して死んだように見えるが、死に先んじて絶望と格闘し答えを見出していた彼らはどちらも救われたに違いない。

 彼らの絶望は人間の小さすぎる限界に由来するが、これは逆に言うと彼らが人間として分不相応な「かくありたい」と言う理想を持っていたから感じる絶望でもあっただろう。キルケゴールの言う死に至る病たる絶望は自力では逃れがたいし、親鸞も臨終の一念に至るまで煩悩は絶えないとしていた。こうした認識がある以上は救いに他力は不可欠となる。キルケゴールはヘーゲルを批判したことでも有名だが、これは親鸞が自力の仏道を批判したことにも似ている。ヘーゲルの人間はどんどん進歩していずれは理想に至るとする発想は、法華経の教えに似ている。人間の矮小な限界を確信した人間には実践も許容もできないだろう。

 仏教も哲学も時代に応じて様々な教えが説かれてきた。色んな人に合う教えはきっとあることだろう。その全てを空とみればみんな違ってみんないい。

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