義勇兵役法

 昨日は沖縄終戦の日だったが、6月23日はもう一つ記憶に残すべきことがあった日だ。昭和20年6月23日は義勇兵役法の公布日でもある。

 この時の日本陸軍の主力は中国などの外地にあり、かつ既に制海制空権を喪失した日本には本土を守る兵力を輸送することも出来なかった。このため、俗に根こそぎ動員と呼ばれる徴兵を行ったが足りず、沖縄陥落のこの日ついに、男性の15〜60歳、女性の17〜40歳までの全員を戦闘部隊に編入できるようにする義勇兵役法が公布された。なお、この法律では志願兵には年齢制限を設けず、文字通りの総動員体制がとられることとなった。総兵力として3千万人の動員を目指していたともいう。

 沖縄戦は日本が敗北したとはいえ、長期化し米軍にも多大な被害が生じた。このことから米軍は対ドイツ戦の時のような全土占領による完全勝利を目指すだけではなく、日本との講和も検討するようになった。

 しかし、この沖縄戦での日本軍の粘りの大きな要因は民間からの事実上の徴兵・徴発や、民生を考慮しない徹底抗戦が生んだ結果であり、本土決戦の決号作戦は沖縄戦と同じことを本土で計画したともいえる。帝国政府の目論見は、ひたすら戦争を長引かせて条件付きの講和に持ち込みたいというものであった。

 しかし結局、決号作戦は発動される事無く終戦を迎えたのは周知の通りだ。これは昭和天皇の決断や原爆投下やソ連参戦の影響が大きいが、米軍も日本本土で巨大な沖縄戦を再現したく無かったのは間違いない。米軍がやる気ならわざわざ戦争の最終盤でポツダム宣言など送っては来なかっただろう。沖縄戦の多大な犠牲の上に米軍の躊躇が生まれ、本土で沖縄戦の悲劇が再現される前に講和が成立したのだから、牛島中将では無いが沖縄には本土から格別のご高配があってしかるべきだろう。地政学的にどうしようもないこともあるだろうが、物心両面での支援を惜しむべきではない。

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