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世界禁煙デー

 5月31日は世界禁煙デーです。喫煙は癌のみならず、閉塞性肺疾患や血管障害など多彩な健康被害を引き起こします。昨今はコロナ禍で在宅の機会が増えたために受動喫煙が増加しており、多くの非喫煙者が理不尽な被害にあっています。高齢者など余命もそう長くないニコチン中毒患者がタバコを吸いたいというのを止めるのは人道的にいかがなものかとは思いますが、若い非喫煙者層への被害を看過も出来ません。  タバコの販売は国家公認とはいえ、無辜の市民を様々な手を使いニコチン中毒にして依存症患者からお金を巻き上げるビジネスモデルであり、反社会組織の麻薬取引と同じです。国民の命を税金に変えている収益を得ている分なお悪質です。しかも、平均寿命が50歳程度だった昔ならそれで国家的な収益も出ますが、平均寿命が伸びた現在では、依存症患者や受動喫煙の被害を受けた人達の若死にや疾病による経済活動の低下は税収の機会損失と医療費負担増をもたらすのですから、結果として国も損をします。  国家として色んな事情でタバコを違法に出来ないのであれば、せめて国家の収益に見合うだけタバコに対して重税を課すべきです。重税を課せば、タバコの消費量が減り、健康被害も減ります。喫煙の被害により失われる金銭よりタバコ税の収入が多くなるまでは増税し続けるべきです。また、受動喫煙に関しては刑法の整備も期待したいところです。  ニコチン中毒の依存症患者もある種の被害者であり可哀想ではあります。その多くは禁断症状でいつもイライラしており凶暴です。その症状を取るためにタバコを吸い続け、タバコ会社にお金を搾り取られ続けるのです。非喫煙者の家族にも大迷惑です。また、タバコはしばしば家屋や山林の火事の原因となり医療的な健康被害以外にも多大な被害を社会に与えます。  日本では本日5月31日から6月6日までを禁煙週間ともしており、一人でも多くの人が禁煙してくれる様に頑張っていきたいと思います。

山に登る

 山の上に立ち、眼下に自分の住む街を一望に見下ろす時、さまざまな個人的社会的問題もふと俯瞰的に見ることができるような気がします。眼前に問題が広がる平時とは違う感覚です。昔から西行はじめ多くの仏教者や詩人はよく山に登りインスピレーションを得ていました。お寺にしてもお布施を得るためなら都市の郊外が有利ですが、修行用の寺院である比叡山や高野山や永平寺は山の中です。自分と世界を見つめ直すには山は良いものです。現代でも半ば文明の外側にある山中では、警察も消防も救急もすぐには来てくれません。そんな社会から離れた環境で命をかけて自然と対峙する非日常的体験により感覚が研ぎ澄まされるのです。  最近では気楽なレジャー感覚で山に登る人も多いのでそういう感覚も薄れてきているのかもしれませんが、現実的に近所の低山でも自然を舐めては事故の元です。単独で山に行くときは必ず入山届を出すか、知人にいつ下山予定なのかを告げて不測の事態に備えましょう。  さて、そんな危険な山に登らなくても瞑想をする時に自分の視点を果てしなく遠く広くしたり果てしなく近く小さくしたりとする視点の移動をさせる技術は古今東西によくあります。密教でも自分を宇宙そのものの仏である大日如来と一致させる瞑想をしますが、こうした全世界、全宇宙にまでに自分の視点を動かす瞑想では、山の上から街を見下ろすよりもはるかに高いところから自分の日頃の世界を見下ろしています。もちろん、こうした瞑想では現実に観測される宇宙とは別のものが観られるわけで、世界中にある古い宇宙の予想図は人間の多様なイマジネーションの産物です。しかし、先人達が我々の銀河系とアンドロメダ銀河の衝突を予測できなくても、ブラックホールの内側を言い当てられなくても瑣末な問題です。最も大切なのは自分の所属する社会を外から見ることです。  極論すれば人の命がかかっていない殆どの問題は、自分の命をかけて悩むに値しません。たまには心の山に登って自分を見下ろしてみるのも良いでしょう。

仏の真似

 昨日の擬態の話の最後に仏や菩薩の真似が衆生を救うと書きましたが、そもそも仏教自体が仏の真似です。お釈迦様は修行の結果、真理を発見しました。その後お釈迦様は、凡人には理解出来ないであろう真理を発表するかどうか迷っていたところを梵天に真理を理解出来る人もいるだろうからと懇願されて布教を決意されたと伝えられます。最初の布教の相手はかつての苦行の仲間であり、一定の素養を持った人を対象に説かれています。お釈迦様初の説法は縁起の法と四諦八正道だったと言われます。これは真理の理論とそれを確認するための実践方法です。つまり、真似をしてみないと分からない内容となります。教えを受けた修行者は仏の真似をして教えを理解したのです。  実際のお釈迦様がなぜ布教を決意したのかは分かりませんが、後世にお釈迦様は全ての生き物を救おうとする志で布教をされたと信じられるようになった事は、大乗仏教以降の利他の思想に大きく影響したと言えます。縁起や無常観の考えを元に空や唯識の思想を体系化し、様々な瞑想方法が編み出されました。お釈迦様は真理を作ったのではなく発見されたものであるから、確実な真理から演繹されたものもお釈迦様の教えと同じと見なされたのも特に大乗仏教が多様化した原因の一つと言えます。このダイナミズムが、時代や社会や環境にマッチした教えを熟成します。現代の温帯地方に古代の熱帯地方の教えや常識がそのまま適応されないのも、まさにこのゆえです。また、こうした多様な教えが発展したのは全ての人を救うという目的から生じる寛容性のおかげでもあります。その意味も分からず今となっては内容も確かでない古代インドの方法以外は間違っていると言う人は仏教で最も避けるべき執着に陥っているのです。仏教の伝播において、人は先人を真似て同時に創意工夫を加えて、時代や地域にちょうどよいように進化してきました。  これは現代の大乗仏教でも変わりなく、信徒は今ここに仏様がいらっしゃったならするであろうことをしようと努力します。たとえ真似事でも仏様のような人が増えるのは善いことですので、みなさんも積極的に真似ていきましょう。

ベイツ型擬態と人間の真似。

 ベイツ型擬態とは、有毒の生物に似た毒々しい警告色の模様を持つ無毒の生物が捕食者から狙われにくくなることです。このベイツ擬態が発見された時代はようやく進化論が出始めた頃であり、無毒の生物が身を守る擬態のために警告色を獲得したかのような説明がされる事がありますが、進化論的にはたまたま警告色を獲得した無毒の生物が捕食者に狙われにくくなったと言うべきでしょう。  ある生物の進化は、その生き物がそう願ったからでも工夫したからでもなく膨大な偶然と時間の産物です。しかし、人間的な視点では、あたかも無毒の生物が意志を持って有毒の生物の見た目を真似ることによって危機を回避しているように錯覚して、(生物が意図的に)擬態していると言う人もいるわけです。結果として擬態しているのは否定しませんが、決して意図的ではなく進化の結果です。  一方、人間は生物として何かに擬態してはいませんが、狩猟や戦争あるいは商取引などにおいて自分の意志をもって様々なカモフラージュをします。これは進化では無く自然や状況を観察して考え出した結果です。また、誰かすごいことを成し遂げた人がいたら、多くの人がその人の真似をします。実際にそれが有効かどうかは実のところわからないのですが、そうした多様な真似を繰り返してきた結果、人間社会の環境に適応して実際に効果があった真似は生き残り体系化されていきます。科学だけでなく武術や宗教や哲学に至るまで、何らかの思考や思想の体系は、生物ではなくミームの進化の結果生じたものと言えます。仏教は特に変異や分岐に富む体系であり進化論的にみても興味はつきません。  進化という一点で考えると、ベイツ型擬態で救われる虫などがいるように、仏や菩薩の真似をすることで救われる衆生もいるのだと思います。

老少不定の実際を簡易生命表で見る。

 人の命は若くても老いていてもいつ消えるか分からないとする老少不定という言葉は、現代では浄土真宗の白骨の御文章でもっとも有名かと思いますが、平家物語の「老少不定の世の中は石火の光に異ならず」や妙行心要集の「念念亡身 歩歩近死 況老少不定 旦暮難知 年過半人 残日為幾」などでも知られます。寿命が伸び、若年者の死亡率が下がっている現代において忘れられがちな事ですが、常に老少不定を思い日々を大切にしたいものです。今日は、史上もっとも死から縁遠くなっている現代日本の年齢別の死亡率をみて、老少不定を思ってみたいと考えます。  厚労省が発表している令和元年版の簡易生命表によりますと、0歳児の年間死亡率は男子で0.199%でありおよそ0歳男子の500人に1人は1歳になること無く死にます。意外と多いものです。女子では0.178%で男性よりもやや少なく、生まれたての頃から女性の方が強いようです。死亡率が最低になるのは男子で10歳の0.007%で1万人に1人も死なない事になりますが、日本には50万人ほどの10歳男子がいるので確率的には年間で35名ほど死にます。女子は9歳と10歳で0.005%とやはり男子より強いです。以後、死亡率は徐々に上がってきますが緩やかであり年間の死亡率が0.1%つまり1000人に1人を超えるのは男性で41歳の0.101%、女性では47歳の0.110%です。こうして死亡率がほぼ0%から0.1%上がるのに男で31年、女で38年を要した訳ですが、年間の死亡率が更に0.1%増えて0歳児の死亡率を超えるのが、男性で48歳の0.200%でありわずか7年で倍の死亡率になります。また、この年齢だと男性はおよそ女性の倍ほど死にやすいことなります。やはり女性は強いです。女性の年間死亡率が0.2%を超すの55歳で男よりも強いですがやはり8年で死亡率が倍になります。この頃から友人や同年代の知人の訃報をよくきくようになり寂しい物です。人間は歳を取ると加速度的に死にやすくなるので、若い頃は気にして無かった死を強く感じだすのもこのくらいの年齢からでしょう。0.1%ずつのプロットをとると気が滅入るので次に1%を超えるのはいつでしょうか?男性は65歳の1.030%です。年金がようやくもらえると思った男の100人に1人はその年の内に死にます。女性の年間死亡率が1%を超えるのは74歳の1.026%で...

サンクコストと仏教

 サンクコストとは経済学で回収不能な投資や労力の事を指す用語です。サンクコストにこだわって失敗した実例として、超音速旅客機コンコルドがあります。コンコルドは開発途中で採算に合わないと分かっていながら、英仏両政府はそれまでにかけたコストを惜しんで事業を強行して被害を拡大させたのです。この事件から、類似のケースにおける心理的要素からの判断ミスはコンコルドの誤謬とまで呼ばれます。  しかし、コンコルドに関して言えば、あの美しい機体と素晴らしい性能はロマンの塊です。また、コストを度外視した国家の威信とか技術力の誇示とかの狙いもあったのでしょう。そう考えると一概に誤謬とまで言えるかどうかは分かりませんが、少なくとも商業的には大失敗でした。  この残念なケースから私達が得られる教訓は、今から行う事に関しての意思決定に、回収不能なサンクコストを影響させてはならないということです。考慮すべきはあくまでも現在の状況のみです。商業的な失敗を最小限に抑えるのならば、今後の採算が合わないと分かった時点で、それまでにいくら莫大な金額をコンコルドの開発につぎ込んでいたとしても事業は中止するべきだったということになります。  似たような考えは南伝仏教の一夜賢者経にも説かれています。もう変更することが出来ない過去を追ったり、明日はもう死んでいるかもしれないのに未来を色々夢想すること無く、今をよく観察し動じることなくやるべきことをやるようにという内容です。経済学や商売では先を色々と予測し様々な戦略を立てることが肝心ですが、仏道修行においては先の保証なんて無いのですから今まさに悟ってやるくらいの勢いで現在に集中しているのです。この辺は目的が違うので構わないかと思いますが、いずれも既に変更出来ない過去に執着するのは有害な訳です。過去の経験から学ぶことも多いものの、過去自体は変えられません。今の状態をよくみて時間を大事に行動して参りましょう。

梁の武帝

 梁の武帝といえば達磨大師の「無功徳」の話で有名で、功徳を期待しての善行が批判されたり、仏教への帰依の深さを演出するための極端な出費で国庫を傾かせたり、自分が仏教に通じているとの慢心から他人を見下して諫言を聞き入れなかったなどと伝えられ、割と散々な言われようです。  しかし、梁の武帝が仏教に傾倒したおかけで、南朝梁と交流があった東アジア地域に仏教が広がったと見ることもでき、その功績はもう少し評価されてもいいような気もします。武帝は自身も仏道修行に励んでおり、それへのおべっかだったとしても近隣諸国からは皇帝菩薩とも呼ばれていました。ちなみに初めて盂蘭盆会の法要を開いたのも武帝だとする伝説があります。彼がいなければ、お盆に親族が寄り集まる風習も、それにより生まれた数多くの思い出も無かったかも知れません。  さて、その後いろいろあって、武帝は反乱軍に捕らえられて食事も与えられず飢え死にするという悲惨な最期を遂げます。結果として失敗した人間には冷たい評価が下るのは歴史の常ですので、後世の悪評は多少値引いてみてあげたくなります。