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除夜の鐘

 除夜の鐘は鎌倉時代頃からの風習が少しずつ形を変え現代に伝わっており、年越しに打たれる108の鐘の音は人の煩悩を除くと言われます。近年では近所迷惑などという意見もあり除夜の鐘をつくお寺は減っている様です。今年はコロナ禍もあり参拝者も減ると思われ更に少なくなるかも知れません。  そんな中、独特の迫力ある鐘の突き方をする知恩院さんが今晩22時30分ごろから除夜の鐘をライブ配信するそうです。下にリンクを貼っておきますので、ぜひご覧になってください。 https://youtu.be/Ck915zpwKmI  新年の祝い事を重視する日本の文化では年末の内に掃除を済ませ家をきれいにして歳神さまをお迎えする風習があるように、鐘の音で怒りや貪りや偏見などの煩悩を除いて心をきれいにして新年を迎えたいものです。  今年も一年お疲れさまでした。皆様が除夜の鐘を聞いて気持ちよく新年が迎えられますようにお祈り申し上げます。南無佛。

今年の煩悩、今年のうちに

 明日は大晦日、除夜の鐘は煩悩を払うとされていますので、その前日の今日は一年を振り返り自分の煩悩を反省する機会としたいと思います。  108の煩悩を検証しても良いのですが、煩悩の基本である貪欲と瞋恚と無明について振り返ります。貪欲、瞋恚、無明は、現代語だと貪りと怒りと偏見といったところでしょう。  貪りに関しては、人に施しをする時ですら、その見返りや感謝を全く期待していなかったとはいえませんでした。貪りの対象は物やお金だけでなく、名誉や他人からの感謝も欲すれば貪りですので気をつけていきたいものです。  怒りは、デマやヘイトを撒き散らす人々に対する怒りを持ってしまいました。しかし、彼らは叩き潰す対象ではなく、その迷妄から救わねばならない可哀想な人達であることを忘れないようにしたいです。  偏見については、未だ避けがたし。これまでの経験からのバイアスは思考作業においては常にあり、諸行無常も諸法無我も意識しないと忘却の彼方です。  この身を今生をもって度すのは難しいけど、私を含めて大半の人でもごく短時間なら、座禅なり念仏なり題目なり真言なり何なりで煩悩が無い状態を作ることは可能な訳です。在家生活で持続させるのが難しいのです。なるべくよい状態を維持できるように年末や折々の節目に自分の煩悩を反省する機会を持ちたいですね。明日は除夜の鐘のライブ配信でも見ながらゴーンとこれらの煩悩を吹き飛ばしてもらいましょうか。  

羽田雄一郎議員について

 12月27日、羽田雄一郎議員が新型コロナ感染症により急死されました。謹んでお悔やみ申し上げます。羽田議員は発熱と体調不良はあったものの医療機関への負担に配慮され検査を一旦は断られたと報道では伝えられています。また、議員は糖尿病や高血圧など新型コロナウイルスの増悪危険因子もお持ちだったとのことでした。  新型コロナウイルス感染症は日本でも拡大が加速しており、感染を疑わせる症状がある人は医療機関への負担など配慮すること無く速やかに検査を受けていただくことが、逆に現場の負担も軽減させます。公衆衛生の改善を助けると思ってすぐに検査を受けるべきです。もし軽症でも検査して感染が認められれば早めに治療開始が可能であり本人の救命率が上がる以外にも、早期に隔離することで他の人への感染拡大も防げます。今回の感染症は発症前から他人にうつす事が知られていますので、早めに感染者が特定されれば無症状の接触者に関しても検査をしてさらに感染拡大を抑える事が出来ます。  特に糖尿病などの危険因子がある方は血管障害の合併症も起こしやすく、脳梗塞や心筋梗塞では本当にあっという間に悪化しますので、先んじて予防的な投薬を行い、急変した時にも即時に加療開始出来るように入院しておいた方が良いです。  感染拡大の防止には三密を避けマスク着用や手洗いなどを励行する以外にも、症状があったり感染した人との接触がある人は早く検査して感染の有無を確認することも重要です。繰り返しますが医療機関が多忙だからという理由での配慮は無用ですので、躊躇なく検査を受けてください。

延命処置

 もう手を尽くしても回復の見込みが無い患者様に対して本人や家族の希望に基づき積極的な加療を中止する場合があります。家族の入院に際して急変時の延命処置の是非を聞かれた事がある人も多いかと思います。今日はその意思決定はなるべく本人がよく考えて行うべきだという話をします。  先日、神経難病の患者様が安楽死を騙る営利殺人の被害に遭っていましたが、こうした事件も延命処置に対する誤解につけ込んだ卑劣な犯罪と言えます。人工呼吸器を望まない患者様に麻薬などの処方で苦しまないようにする事は現時点でも合法です。こうした問題に悩まれる方はまず主治医に相談して下さい。もちろん意志の撤回・変更はいつでも可能です。安易に安楽死を望む方は恐怖心からそう望む方も多いです。延命するかどうかは冷静に判断するべき話ですので、まずは怪しい殺人請負業者ではなく主治医に相談して説明を受けるべきなのです。  一方、末期癌などの場合の一般的な延命処置については、終末期に心肺蘇生を試みるかとか人工呼吸器を使うかというような話を思い浮かべるかと思います。こうした場合は、実のところ延命自体がしようにも不可能なのです。家族らがどうしてもと言えばやるだけやりますが、延命できない上に肋骨が折れ喉が切開される状況に追いやるのは患者様が可哀想でもあり、どちらかと言うと家族に延命処置が無駄である事の説明することが医療者の役目となります。  また他にも、延命処置は広義には病気や加齢から起きる緩徐な病状の進行時にどのように患者様をケアするのかという問題も含まれます。  新型コロナウイルスの流行に伴い、クラスターが生じ機能が破綻した老人病院から私の勤務する病院にも転院してくる患者様がいます。その中には、個人情報保護法や医師の守秘義務に抵触しないようにボカシますが、認知症の進行で反応が乏しくなり経口摂取も出来ず全身の関節が拘縮し体重も20kg代まで落ちて、中心静脈栄養(丈夫な太い静脈に管を入れて栄養を投与する方法)で何年も生きて来た患者様もいます。  認知機能障害が悪化し自分に何が起きたのか理解出来なくても、痛いとか怖いとか不安である事は分かる場合が多いものです。関節が固まって動けなくなり、筋力も落ちて、意思の疎通も状況の理解も困難な状態で生きてきた患者様の気持ちを想像すると悲しいものがあります。もちろんこの状況はご家族様の希望によるもの...

科学の発展と死

 科学技術の発展により人の寿命は大きく伸びました。それに応じて死を実感を持って捉えられる人も減っているように思えます。  どう見ても余命いくばくもない患者様の本人やご家族様が、延命とかいうレベルではなくどうすれば元通りの元気な状態に戻れるのかと尋ねてこられることも珍しくはありません。  これらかも科学の発展ともに人の寿命は伸びるでしょう。だけど人が必ず死ぬ事には変わりはありません。  健康で長生き出来る状態をなるべく維持したいのはほぼ万人の願いでしょうし、それを目指す事自体は何の問題もありません。ただ、死はいつも私達のそばにいるのを忘れていると、死が自分の目前に迫った時に慌てる事になります。別に宗教じゃ無くても哲学や個々人の思惟でも構いませんが、死に関しての考えはもっておくべきです。  科学の発展に伴い起きる死の問題でもう一つ気になるのは脳死です。現在の日本において、脳の全てが障害された為に死を免れ得ず意識や思考の回復の見込みも無い人から、臓器を他者へ提供する場合においてのみ発生する特殊な死が脳死です。つまり自分の死後に臓器移植を望む人と望まぬ人とでは、法的な死のタイミングが違うのです。一般的に法的には、自発呼吸と心停止と脳幹反射の停止をもって死であると決めていますが、脳死では心停止する前に各種臓器を摘出します。  個人的には、当人が死ぬ前に自分の臓器を他者のために役立てたいとの意思を示すのは尊いことだと思いますが、もし更に科学は発展し移植臓器の培養が可能となったり、高性能な機械化された臓器が出現した場合、おそらく脳死という概念も消失するでしょう。少なくない宗教家が脳死に反対なのは、きっと、人間の都合で死のタイミングを動かす事に対する反感もあるのかと思います。  しかし、どこからを死とみなすのかは難しい問題です。死が確実となった時と言うのであれば、我々は生まれた瞬間に死んでいる事になります。現在の法的に定義された死であっても、死が判定された時点では全身の細胞が死滅している訳ではありません。ただ、科学が発展する前は間違って死んだと判定され埋葬されるというあまり想像したく無い事態も稀にはありました。そう考えると科学の発展により、死に一定の線引がされたことはそう悪くないことなのかも知れませんが、死について深く考える機会を減らす原因となったのかも知れません。

現代詩の衰退を嘆く

 日本では詩人は絶滅危惧種だ。  漫画やアニメのキャラでポエムが趣味というのは失笑の対象となるイタイ人間であること示すアイコンのようなものだ。  それでも俳句や短歌やラップのリリックの様な一定の様式を持つ詩は社会的にある程度の評価を受けている。しかし、自由な現代詩などは危機的状況だ。昭和より後に生まれた詩人で名の売れた人間はほとんどいない。出版されても詩集は売れない。  この衰退の原因は様々に言われているが、ニッチになり過ぎて一般に理解されなくなっているのでは無いかとも思う。仏教の偈文や和讃は分かりやすく経典の内容を説明するのに詩を用いたのだが、現代の詩は分かりにくさをもってよしとしている感すらある。  現代詩が滅びるのもしのびないので、年末年始はビハーラ的現代詩でも書いてみようかと思う。

奄美群島

 昭和28年(1953年)の12月25日、米軍の占領下にあった奄美群島は日本に返還されました。今日は復帰から67年目の記念日です。  第二次世界大戦後、奄美や沖縄を含む南西諸島の大半が米軍の占領下に置かれました。米軍はこれらを奄美、沖縄、宮古、八重山の群島に分け、知事と議会を住民の投票で選ばせましたが、奄美で日本復帰派がその大半を占めると、それを嫌った米軍が米軍傀儡の琉球中央政府による支配を推進し奄美群島政府は解体されます。  またこの頃、日本本土という市場を失った奄美の経済状態は悪化しており、沖縄の戦後復興の為の労働力として多くの奄美人が沖縄へ渡っていました。  しかし、昭和28年に奄美群島が本土復帰するや、沖縄在住の奄美人達は外国人として公職を追放され、多くの財産が没収されるなど、差別的な扱いを受けるようになります。これは奄美の本土復帰派に共産主義者が多かったので、反共の米軍が奄美出身者を差別するように仕向けた側面もありますが、地元マスコミなどの知識陣も含む大半の沖縄人がこのレイシズム運動に加担し続け、昭和47年(1972年)の沖縄の日本返還まで行政上の差別は続きました。民間でのヘイト行為はその後も続きますが、徐々に沈静化していき少なくとも地元マスコミが奄美人差別を煽るような事は今ではもうありません。  こうした歴史もあり高齢者を中心に沖縄に恨みを抱く奄美人はまだいます。また、沖縄側にも一部には奄美差別が残っており、気に入らない人の祖先に奄美出身者がいたらそれ自体が悪であるかのように言う人もいます。  とは言え若い世代ではもうほとんどわだかまりも無いようで、この問題も過去のものになりつつあります。しかし、レイシズムは油断すればいつどこにでも現れうるものだという身近な実例として忘れてはいけない話だとも思います。  本土復帰や主権の回復の為に闘ってくれた奄美の先人達の苦労に感謝します。今日は不飲酒戒を破って豊年節を聞きながら黒糖焼酎で奄美の為に乾杯!