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般若心経の密教的解釈(空海の般若心経秘鍵)

  空海が般若心経を密教経典として解説した書に般若心経秘鍵があります。この中で空海は、般若心経の内にこれまでの仏教の教えの全てが含まれるとし究極の真理たる密教の優位性を暗示しています。それに関する考察は後にして、まずは、知っている人からは端折りすぎだと怒られそうですが、般若心経秘鍵の要点を物凄く簡略化して説明します。  般若心経秘鍵の前に一般的な般若心経の内容を一言でいうと、観音菩薩があらゆる事象を空だとみて全ての苦から解放された事の解説です。空海はまず、般若心経の冒頭に出てくる観音菩薩の事を、全ての仏教修行者とみなしています。修行者がそれぞれの道にしたがって仏となりうるとしているのです。修行の完成までにどれほどの時間がかかるのかは各修行者の性質とそれにあった教えにより違いますが、密教では現世で仏となれるのに対して、他の教えでは無限とも思えるほどの長い時間がかかると説いています。そして各種の仏教の教えが般若心経の中に含まれているとして5つの教えをあげています。般若心経中で最も有名な文言である「色即是空 空即是色」は、物質は相互の縁によりなりたつ実体が無い空であるという意味です。華厳経にも究極的に事(色)と理(空)の区別をなくす教えがあり、事と理が不可分であるのは金の獅子像も金であり波も水であるようなものだとのたとえもあります。空海はこの部分の文言を華厳宗とその代表的尊格である普賢菩薩の教えを意味すると解釈しています。また、同じく有名な「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は一切の物事はその本質において存在せず、言語化された概念も関連性の中にしか成立し得ないという空の思想の根幹です。この文言のオリジナルは中観派のバイブルと言える「中論」の八不として知られます。空海はこの部分を般若=智慧の象徴である文殊菩薩の教えと解釈しています。なお空海が生きた当時に中論や空の思想を最も重要視したのは三論宗となります。続く「無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」の部分は全ては心により作り出されるとする唯識思想の表れで弥勒菩薩の教えとみています。空海の生きた時代では法相宗の教えにあたります。さらに続く「無無明亦無無明尽」「無老死亦無老死尽」「無苦集滅道」などの般若心経の文言は、一般的には初期仏教の教えの否定とみられますが、空海はそれが初期仏教の教えの境地と考えています。すなわ...

良寛さんの詩 その1

  子供好きとして知られる良寛さんは有名な割には色々な謎があり古今多くの研究者が挑んでいる曹洞宗の禅僧です。その後半生は特定の宗派にとらわれないフリースタイルの仏教者として衆生と共にあり、墓所も浄土真宗の寺にあります。また、多くの和歌や漢詩や俳句や書を残しており文化人としても有名です。良寛さんは大悟の後は寺に入らず、生涯を市井で乞食行をして過ごしました。そんな良寛さんに、長岡藩の第9代当主で江戸幕府老中もつとめた牧野忠精から長岡に寺を造り招聘したいと提案がありましたが、良寛さんは断っています。今日は、この申し出を断った時の良寛さんの俳句をご紹介します。  たくほどは風がもてくる落葉かな  自分の煮炊きに必要な燃料は風が運んでくる落葉でこと足りるという意味です。婉曲に藩主の申し出を断ったのです。  地元の人から愛され支えられいた良寛さんも決して楽な生活は送っていませんでした。寺の住職におさまれば生活の心配は減ったはずですが、それを断り人々の間で清貧な生活を送る事を優先させたのです。良寛さんは大きな説法会などもすることはなく、自身の生活態度や詩歌や会話などで人々を教化しました。今でも多くのファンがいますが、一般にも子供と遊ぶお坊さんとして知られており、少なくとも子供を大事にというメッセージは確実に伝わっています。元々有名な僧ですが、何かにつけ自己責任論の元で弱者が切り捨てられがちな昨今、見直すべき先人の一人であると確信しています。

自我偈

 自我偈は法華経の中の偈文(仏教の詩)で天台宗や日蓮宗で特に重要視されています。自我偈の内容は、お釈迦様は実は死んでおらず永遠の存在として法を説いているというものです。しかし、迷いの中にある人達にはお釈迦様が死んだと思わせ、仏を求める心を掻き立てているのです。そうして、まっすぐで柔らかな信仰心を持つ時に仏とあうことが出来るのです。お釈迦様が永久にみんなのそばにいるこの世は実は浄土なのです。  法華経の信者はこのような教えもあり、現世が正しい仏国土であるように社会活動に深く関与しやすい傾向があります。一方で、お釈迦様が悟りを開いて初めての説法にあった様に、この世は苦しみに満ちています。その中で仏の常住を信じ、仏を見て、この世を仏国土とするには、重ね重ねその事を確認しつつ精進する必要があり自我偈が日々お勤めされるのです。  天台宗の一隅を照らす運動も、一人一人がそれぞれの環境や立場で精進することが社会全体を良くすると言う発想で出来ています。  大変な時代ですが、世界が浄土のように平和になるように祈ります。

ワクチン陰謀論

 新型コロナウイルスのワクチン開発競争が進む中、様々な陰謀論が出ています。少し考えれば嘘だと分かることでも、例えばワクチンを開発した国や、調達の外交交渉にあたった政治家が嫌いな人はその国や個人を批判したいが為に荒唐無稽な陰謀論を信じて拡散する傾向があるように見えます。放っておいても良いのかも知れませんが、多少なりとも反論しておかないと、嘘のほうが事実のような風潮が出てきかねません。今日はよくある陰謀論について反論していきます。  まず、製薬会社が儲けるために新型コロナウイルスを広めたという陰謀論です。つまり、ワクチンや治療薬は既に開発済みで、営利目的で新型のウイルスをばらまいたとする説です。その場合は当然、関係者は既にワクチン接種済みで薬も常備している設定です。しかし、ワクチンや薬は大規模な臨床試験をしないと有効性の確認が出来ません。つまり、密かに保有する恐ろしいウイルスへの確実な対抗手段は閉鎖された少人数の集団では開発不能です。  次、ビル・ゲイツがワクチンにマイクロチップを仕込んで世界征服を企んでいるという陰謀論です。反論の必要が無いくらい馬鹿馬鹿しい話ですが、一応反論すると、目視できない大きさのマイクロチップなんてありません。注射する時に手動で仕込むんだと言う人は、ビル・ゲイツが世界中の医者や看護師を買収できるほどのお金持ちでは無い事を知るべきです。  次、アメリカの陰謀でワクチンではなく他国の市民に被害を与える毒物を準備しているといいう説。今までも他のワクチンで同じことが言われてきましたが、アメリカ製のワクチンを使用して何らかの壊滅的被害が出た前例はありません。また、これほど大規模に毒物を用意するなら、関係者が多すぎて隠蔽不能なのは自明です。  最後、それでも副作用が起きるから反対という意見。これは価値観の問題なので個人的に嫌だと言う分には問題ありません。ただ、副作用の問題を誇張して言うのはやめていただきたいです。確かに、ワクチン接種により生じた自己免疫性の疾患で重篤な後遺症を残す例もあり、個別の話としては悲惨です。そうなる可能性がわずかでもあるならばワクチン接種に反対だとする人がいてもそれは止められるべきではありません。しかし、あたかも接種すればみんなそうなるかのような言い方をされたり、ワクチンは実は効果がないというデマがセットで語られる事が多いのも事実で...

仏教の伝統

  以前、 常識を壊すな! と言う投稿をしましたが、常識の様に人間が長い時間をかけて作り上げてきた習慣を伝統と呼びます。仏教は伝播した時代や地域の文化に応じて発展して来た歴史がありますので、各地に郷土色豊かな仏教の伝統があります。今日は伝統はなるべく大切にしましょうというお話です。  このブログでも時に伝統行事を紹介しています。例えば最近のブログ記事で紹介した地蔵盆の成立は江戸時代です。普通のお盆でも原型は大陸の六朝時代の頃の成立で、日本では推古天皇の時代が始まりです。インドのお釈迦様が言い出した行事で無いことは明白ですが、これらは仏教行事です。  伝統に対する批判は大きく分けて二つで、一つは今の時代に合わなくなったとするもの、もう一つはその伝統が更に昔の時代の伝統と合っていないとするもので、そのいずれも攻撃的な場合が多いです。  今の時代に合わなくなったという意見は、伝統を壊すことで利益があるか伝統を維持することで不利益がある人により唱えられます。伝統には有る種の義務感を伴いますので、それに反対するには実は伝統の方が悪いんだという論法が好まれることより攻撃的になりやすいのです。  今の伝統がより昔の伝統とは違うと言う意見は、その人の考えに合わない伝統の非正統性を主張したい場合に使われます。伝統の良し悪しと言うよりは、否定する事を前提とした批判なので攻撃的なのです。例えば、ある種の仏教原理主義的な人達の意見では、原始仏教の伝統で無いものは全て邪教の伝統とされます。しかし、お釈迦様の教説に従うなら、全ては縁起の中にあり諸行は無常なのです。伝統も環境の影響を受け徐々に変化するのは仕方がないのです。固定した永遠不変の伝統なんて無いのが真理の表れなのです。また、そもそもお釈迦様の時代の伝統は正確には不明ですので比べる事が出来ません。  だから、何かの伝統を変えようと意気込む人に注意して欲しいのは、伝統に対して攻撃的になってはその伝統を大切にする人との間に摩擦を生じることになるので、冷静に折衷案や妥協案をだして欲しいことです。何かしら伝統を守りにくい事態が生じた時に、その伝統の元の意図をくずさぬ形で多少の工夫を加える事だって可能なはずです。元の意図も含めて何が何でも不要だと思う場合でも、棲み分けを図ることは出来ます。伝統を守る方も冷静さを保って、双方の智慧の出し合いで...

とりこ信仰

 とりこ信仰とは鎌倉時代頃から日本の複数地域に伝わる、子供の養育に関する信仰で、初子や体の弱い子を、神仏の弟子や養子として扱うものです。地域ごとに呼び名は違いますが、新潟では戦後も曹洞宗の寺院で子供をお地蔵さまの弟子とする風習が残っていました。  新潟の曹洞宗と言えばまっ先に思い出されるのは子供大好きの良寛さんですが、良寛さんの子供に対する敬意に近い慈しみは、こうした文化があった土地柄にも影響されているのかも知れません。  とりこ信仰では、子供が成長するまでの一定期間は子は神仏の弟子や養子であり、育てるのは実の親でも子の頭を叩いたり罵倒することなどが禁止されます。もちろん、神仏の縁者で無くても一般論として子供を叩いたり罵倒したりしてはいけませんが、現代と比べて幼児死亡率も高くはるかに過酷な環境にあった昔にあって、弱い子供を特に大切にしようとする大人の誓いがそこには見えます。  子供達の親や師として扱われる神仏には、先述の地蔵菩薩以外に、観音菩薩、鬼子母神、浅間神社や各地の神さまの他、呑龍様など多様です。  このうち呑竜様は戦国時代から江戸時代初期に活躍した実在の浄土宗の僧侶です。呑龍上人は徳川家康の祖霊の為に作られた大光院の住職でしたが、ある子供が病の母の為に禁を犯して鶴を狩ってしまい、その子をかばって罰せられてしまいます。後に赦免されますが、大光院では貧しい家の子らを呑龍上人の弟子という名目で引き取って養育したと伝えられています。当時の貧しい家では育てられぬ赤子を殺す例も多く、呑龍上人は子の命を救い親も子殺しの罪から救った偉人です。  現在ではとりこ信仰が残っている地域もほとんどありませんが、子供を大切にする気持ちは受け継いでいきたいものです。  それではまた、合掌。   

道場

  道場と言えば剣道とか柔道とかラーメンとか野球とかの修行場のように思えますが、元々はお釈迦様が悟りを開かれた菩提樹の下の座の事です。転じて仏道の修行をする場所の意味として使われていました。剣道とかの武道場が道場と呼ばれるようになったのは明治期以降のことですが、単なる技術の学習ではなく精神性も合わせて伝える場合に道や道場という言葉が使われているのです。  さて、禅語には「直心是道場」「平常心是道場」「歩歩是道場」など道場にまつわるものが多いです。この禅語の場合、道場とは素直な心を保つこと、乱れない心を保つこと、言動の一つ一つです。こうした日常の活動全てが仏道修行であるとの実に大乗仏教らしい発想です。  嘘、大げさ、紛らわしい、JAROに通報したくなる情報が氾濫する昨今、素直な心でリテラシーを高め、怒らない平常心をもって騙されないようにし、コツコツと努力してデマに対応するのもまた仏道修行と言えます。  人生とは道場と思って頑張って参りましょう。合掌。