投稿

イード・アル=アドハー

 イード・アル=アドハーはイスラム教の祝祭です。イスラム暦の12月10日より4日間行われ、我々が使っているグレゴリオ暦だと今年は7月30日夕から8月3日夕までとなります。ちなみにイスラム暦は完全太陰暦で閏月を挟まないので、毎年約11日ずれていきます。  この祝祭は聖書で、アブラハムが神に試されて自分の子を神の生贄にしようとした時、その寸前で神に止められて、代わりに羊を捧げたという話が元となっています。この期間、羊などが礼拝所に持ちよられ、貧しい人のために振るまわれて、残り物は家族や友人との祝いの食事として与えられます。こうして、イスラム社会の慈善と結束が強くなるのです。  新型コロナウイルス感染症の影響で今年のイード・アル=アドハーは人数の制限を設けているところもあるようですが、苦しい時もお互いに助け合う文化は見習うべきところがあります。  日本国は世界的に見てもかなり優秀な社会保障制度がありますが、それを支える国民といえば昨今では弱者を憎み切り捨てようとする人達が増えなにやらギスギスしています。宗教的・非宗教的なものを問わず社会的倫理を信じる心は大切なのだと思います。善悪とは極論すれば人間が代々受け継いできた社会的な常識に依存しており、有る種の信心だと言えます。自分の不利益になる事を全て拒絶し強いものだけが他を支配し奪い取る体制は、なぜ駄目なのかではなく、常識的に駄目だから駄目なのだと自信を持って言って良いのです。歴史的にみても、富や力が過度に集中しすぎている国は、そうでない国と比べて短期的に強いことはあっても(人の寿命と比べたら長い場合が多いですが)持続はしていません。  長い間つづいてきた国で少しずつ形を変えながらでも大切にされてきた伝統は、長い時間をかけて鍛えられてきた生き残りの知恵が内包されているのです。社会や文化には新しい考え方も必要ですが、伝統を無駄な害悪としてどんどん捨ててしまうのは思慮が浅いと言わざるを得ません。イスラム教がうらやましく思えるそんな日でした。

今日の法句経(110)

 今日、自分が思う所を法句経の一詩とともに考えてみます。  人もし生くること百年ならんも  つつしむところなく、こころ静けさをえざるは  戒めをまもり思いしずかなるひとの一日生くるにもおよばざるなり  (110)  百年間つつしみなくイライラしながら生きても、決まり事を守り心静かに生きる人の一日分の価値も無いという意味です。  身につまされる詩です。心しずかでないのは怒ったり貪ったりするからです。座禅や瞑想で短いあいだ心を落ち着かせるのは可能ですが、生活の中で心を乱さないようにするのは至難のわざです。油断していると百年なんてあっという間に過ぎ去ります。精進してまいりましょう。

安楽死を考える

 先日からALS患者の殺人事件について世間で色々と言われています。報道でもあるように少なくともあの事件に関しては法的には明確に殺人であり安楽死とは言えません。今日は安楽死について考えてみます。  医師が積極的に患者を殺害する安楽死が法的に許容される4つの要件は一般的に、患者の肉体的苦痛が耐え難く、避けられぬ死期が迫っており、他に代替となる手段がなく、患者の意思表示が明示されていることとされています。しかしながら、実際に積極的な安楽死が実施されることはほぼありません。第一にこれらの条件を満たしたと医師が思っていても殺人として刑事事件になるリスクは大きいですし、また肉体的な苦痛の除去する方法が死の他に無いなんて状況はそうそう発生しません。ここで注意すべきは基本的には肉体的な苦痛の除去が安楽死の主眼となっている点です。心身の苦痛を除くとされる場合もありますが、肉体的苦痛が無く精神的苦痛の除去の為になされる殺人や自殺は安楽死ではありません。  他方で消極的な安楽死は医療現場で日常的にみられます。経験的にもっとも多いのが、本人に意識が無く致死的な状況で延命処置を行っても短期間での死亡が確実な場合に、家族にそれらの情報を提供して人工呼吸器の使用や気管切開などを見合わせる希望が出される場合です。また、少数ですが口からの栄養摂取が不可能になった場合に、鼻から胃に栄養を入れる管を入れたり、胃に穴を開けて栄養の取り入れ口を作ったりする処置をしない意思を示される患者様もいます。医療者として気をつけるべきは、延命処置を実施しないのはあくまでも患者様や本人の意識の回復が望めない場合はその御家族からの希望によらなければならないという事です。本人も家族も延命を希望されているのに医師がそれを意図的に実行しなければ殺人罪に問われる可能性があります。  今回の事件のように、ALSで人工呼吸器を使用しない意思表示をされる患者様でも、呼吸苦が生じた段階で苦痛に対しての処置を行っていけば自然に眠ったような最期を迎えることは概ね可能であり、これも消極的安楽死と言えます。もちろん、それまでの精神的なケアが不十分ではいけません。呼吸の苦しさに対する処置をしても血液中の酸素の低下や二酸化炭素の上昇による意識の混濁は避けられません。そうなる前に、自分の人生に対して何らかの納得が得られていないと行く人も見送る人も心残り...

破地獄偈

 華厳経の唯心偈の最後の部分を由来とする破地獄偈として知られる偈文があります。地蔵菩薩が地獄に落ちゆく人にその苦を除くために授けて解脱を得させたという言い伝えもあります。内容は以下の通りです。  若人欲了知 (にゃくにんよくりょうち)  三世一切仏 (さんぜいっさいぶ)  応観法界性 (おうかんほうかいしょう)  一切唯心造 (いっさいゆいしんぞう) 現代語訳:もし過去・現在・未来のすべての世界のすべての仏を知ろうと思えば、世界の真実をよく観察するべきだ。全ては心が作り出したものである。  元ネタとなった華厳経はこの世の全てに仏の元があり世界そのものが仏の現れであると言う考えがあり、同時に個人からみたこの世の全ては心によって作られたものとする考えもあります。だから、人の心を覆う煩悩を払い清浄な心を観れば真理である仏の法はおのずと分かると言えます。この破地獄偈もそう言う前提で読むと意味が分かり易いかも知れません。  実際に地獄のような状況にある時に、おちついて自分の心を見つめると何か良い考えが浮かんでくるかも知れません。もちろん、物理的に危険が迫っているときは瞑想なんてせずに速やかに逃げましょう。      

御霊信仰と災厄

 日本には古く御霊信仰というものがあり、天災や疫病などの災厄が非業の死を遂げた人の霊の仕業として、その霊を祀って災厄を鎮めようとするものだ。崇徳天皇や菅原道真や平将門などのそうそうたるメンバーがこれにあたる。当初はその怒りをおさめようとして祀っていたはずだが、後には普通に神として祀られているのも興味深い。  現代では何か災厄が起きた時に、霊のしわざだとしてそれを祀ることはもちろん無いが、こういう宗教的な素地が負けた方に対する同情心が強い日本文化を涵養したのだろう。平家物語にしても最終的に勝利を修めた源頼朝は話の主体ではなく、滅んだ平家一門や非業の最期を遂げた源義経がより目立っている。  ただ、敗者への思いやりに富んでいたはずの日本の文化も最近ではそうでもない。災厄続きで人心に余裕が無くなっているのも一因だと思う。御霊信仰では無くても、災厄時には人心を落ち着かせるための何かが必要だ。政策的には減税とか補償制度の拡充とかしようもあるしそれを実行する時にメッセージを乗せるがの重要となるのだが、どちらも今ひとつと言わざるを得ないのは残念だ。今は個人で出来る個々の心のもち方を見直すことからはじめていきたい。

今日の法句経(174)

 今日、自分が思う所を法句経の一詩とともに考えてみます。  第十三章 世の中 より  この世の中は暗黒である。  ここではっきりと理を見分ける人は少ない。  網からのがれた鳥のように、天に至る人は少ない。  (174)  この世のことわりを正しく見分けられる人は少ないと言う詩です。  今の世の中を見渡すと、流言飛語が飛び交い、大した根拠もなくそれを信じる人が多く見られます。社会不安のあらわれでしょう。ただし、この詩で気をつけるべきは明らかに誤っている人をみて嘆くことではなく、そもそも物事を正しく見られる人は少ないという理を知ることです。自分が正しいと思っていることに対しても常に検証する姿勢が大切なのです。

ジョーズとコロナ

 ジョーズは1975年公開のスピルバーグ監督の映画です。有名な映画なのでご存知の方が多いかと思いますが、簡単にあらすじをお話しますと、巨大なホホジロサメの襲撃を受ける田舎町で危険を過小評価し海水浴場の観光収入のために海開きをしようとする市長と、サメの危険を理解し海開きを中止させようとする警察署長との攻防を軸に話が進みます。まだ見ていない人のために最後のオチは書きませんが、後半でついに巨大サメはあらわれパニックとなります。今日は表題の通り、昨今のコロナ問題とこのジョーズを対比させて考えてみます。  現在、新型コロナウイルス感染症が再び拡大傾向にあるなか、政府と旅行代理店のコロナなんて大したことは無いとの意見により、観光活性化策がとられています。これがさらなる感染拡大を招かぬことを祈るのみです。さて、映画ジョーズではホホジロザメの危険を軽視した市長の判断は誤りだった訳ですが、逆にもし、ホホジロザメが何らかの理由で街を襲わなかったら危険を指摘し海開きに反対していた警察署長は市長や地元の経済人から吊るし上げられていた事でしょう。一方、映画通りの結果でも市長にそんな巨大なサメが来るなんて予見出来たかといえば難しく、続編でも市長のままですので責任はとらずに済んだようです。同じことはコロナ騒動にも言えます。権力と経済力に寄り添った発言をする人は感染防御的には安全とはかぎりませんが社会的には安全です。この感染症での死亡率は今のところ世界平均で4%程度です。仮に人類全てが感染し社会のシステムに深刻な障害が生じたら関連死も含めて膨大な死者数に及ぶと思われますが、これで人類が滅ぶことはまずありえません。その程度!の被害なら大したことではないから経済を動かせと考える人達にとっては、もう今後おきるであろうどんな被害も大したことではありません。しかも、そう考える人は決して少なくは無く、危険に警鐘をならす我々は彼らから見たら吊し上げ対象に決定です。  人の生死を数字や確率でしか理解しないと、人の命を軽く考えてしまいます。そうなると人命は政治的経済的目標を達成するためのコストとしかみなされなくなり消費されていきます。本来は人命を守るために政治や経済の目標は設定されるべきであり本末転倒です。ジョーズの劇中では終盤に市長も反省しますが、それは危険を直接経験した事にもよります。市長は別に悪人でもなんでも...