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大祓

 今日は神道行事の大祓の日です。記紀神話のイザナギノミコトの禊祓に由来する行事で、6月と12月の晦日に半年に溜まった汚れを払い清める目的があります。12月の年越しに対して6月は夏越まつりとしても有名ですが、新暦でやると梅雨時なので月遅れの7月末にする地域も多いです。茅の輪をくぐったり紙の人形に息を吹きかけた事がある人も多いでしょう。  さて、神道では禊祓いをとても大切にしています。それは、余計な汚れを払って残る我々の魂は神様に連なる清いものだとの信仰があるからです。  この考え方は大乗仏教の如来蔵思想によく似ており、果たして神仏習合により神道が仏教の影響を受けたのか、はたまた、元々似ていたから習合したのか興味深いところです。  人がみな神仏たりうるという考えは他人に対する敬意を生み、平和をもたらすもののように思えます。払え給え清め給え。合掌。  

スプラッシュ・マウンテンのテーマ変更に関する日米世論の違い

 アメリカのディズニーランドほか世界3ヶ所にあるアトラクションのスプラッシュ・マウンテンが人種差別的だとして、アメリカ国内の2ヶ所ではそのテーマが変更されることとなった。東京ディズニーランドにもある施設でこちらもテーマの変更が検討されている。それぞれ30年くらい前からあるアトラクションなので、初期に子供連れで楽しんだ人たちなどは、3世代に渡っての楽しい思い出があるかもしれない。  今回はこの問題に関する日米世論の違いについては考えてみた。大規模調査を行った訳ではなく、ネット上の書き込みからの印象だが、英語での書き込みは変更支持派が多く、日本語のそれは変更反対派が多い。この結果の考察に先立ち、前提となる経緯を少し長めにお話しするので、よく事情をご存知の方は最終段落まで読み飛ばされたい。  さて、スプラッシュ・マウンテンの内容は丸太のボートに乗ってウサギどんの童話の世界をめぐるもので、笑いの国を目指して旅立ったウサギどんがキツネどんやクマどんに追いかけられながらも、最後に帰り着いた故郷が笑いの国であったと気付き大団円となる青い鳥のようなお話だ。終盤に滝壺を模した場所に水しぶきを上げながら落ちるジェットコースターの丸太のボートがこのアトラクションの見どころとなっている。  この内容だけだと一体なにが人種差別的なのか理解に苦しむと思うが、実はアトラクションの内容ではなく、このアトラクションのテーマが問題となっているのだ。ディズニーランドのアトラクションにはそれぞれテーマとなる原作があるが、スプラッシュ・マウンテンに関してはテーマとなった原作映画を見たことがある人は少ないだろう。スプラッシュ・マウンテンの原作である1946年公開の「南部の唄」という作品は人種差別的だとの批判を受けて1986年から封印作品となっている。封印されたのは、スプラッシュ・マウンテンが最初に稼働する1989年より前のことなので、はじめからテーマを差し替えるという手も当然あったが、ディズニーが「南部の唄」を使って人種差別を助長する気など毛頭なかったのは明らかだし、アトラクションの内容自体には特に問題がなかったのでそのままにされたと思われる。様々な違いを超えた融和を唱えるディズニー映画では「ズートピア」が有名だが、主役のウサギとキツネは「南部の唄」を意識したものだろう。多くの人に愛されながら封印を余儀なくさ...

特別養護老人ホームにおける事故

 一昨日、特別養護老人ホームで認知症の患者様が溺死した去年の事件で担当の介護福祉士が書類送検されたとの報道がありました。まずは亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。  さて、事件の発生から送検まで1年ほどかかっており、時間をかけての捜査がなされてのことなのか、後日に告発をうけたものなのか分かりません。なので、今回、送検された方の批評は控えます。ただ、あくまでも一般論として、目を離したすきに溺死したとのことを考えると、やはり慢性的な人で不足が遠因となっている感はあります。  今回の事件では施設の規模やスタッフ数は分かりませんが、概ね全国的に似たような状況かと思われるので、細かいことがわかっている例を上げて考えてみます。今月上旬に職員による組織的な入所者虐待事件が話題になった特養では看護師と介護福祉士33名で80名の入所者の介護をしていました。実際は残業やサービス残業もあるでしょうが、1週間に5日間、1日8時間働いた場合、その施設の1時間あたりの平均スタッフ数は約8人となります。1人で10名の入所者を介護する計算です。特別養護老人ホームの入所者は5段階の要介護度で3以上の自力での歩行に障害がある人ばかりです。この施設では不適切な身体抑制が虐待に当たるとして問題となりましたが、こうした人員不足の状況でもスタッフは、十分な介護を行い、入所者に人間らしい生活を送らせ、身体抑制は禁止されるが転倒・転落・窒息・溺水など完全に防止しないと責任を問われます。しかも過重労働で安月給とかいったいどういう拷問かと問いたい。  以前紹介したユマニチュードという認知症介護技術(解説回の記事はこちらをクリックしてください http://www.angodo.com/2020/02/blog-post_28.html )がありましたが、あれも認知症の患者様が人間らしく生きていく上で生じる事故に関しては寛容な社会でないと全面的な実施は困難です。溺水や窒息や転落はもちろん様々な工夫で防ぐようにしなければいけませんが決して無くなることはありません。もちろん、一部の異常者のように意図的に虐待や殺害を企てていないかは警察の調べが入るでしょうけど、事故の全てに介護福祉士の責任が問われるのは現場の士気にも関わります。  こうした問題を解決するには、公的資金の注入による人員の確保、社会的にも生活に伴う事故死...

醍醐味

 若い人はあまり使わないかも知れませんが、醍醐味という日本語があります。物事の本当の面白さや深い味わいを示す言葉です。今日はこの醍醐味が仏教用語由来だという割と有名な話に関して少し語ります。  昨日、五時八教の教相判釈を説明しましたが、五時にはそれぞれ五味という牛乳を精製してできる食品の味も例えられています。五味は涅槃経に説かれており、乳味、酪味、生酥味、熟酥味、醍醐味と順に熟成されていき、最後の醍醐味が最高の味だとされ涅槃の境地に例えられています。この五味は五時八教の教相判釈では五時にそれぞれ当てはめられており、華厳時=乳味、鹿苑時=酪味、方等時=生酥味、般若寺=熟酥味、法華涅槃時=醍醐味、となります。あと、昨日書きそびれましたが、五時は日の出から正午までの時間を表しており、華厳寺が日の出で法華涅槃時が正午となり、とにかくいろんな例えを使って法華経と涅槃経を礼賛している訳です。  さて、そんな最高の味の醍醐味ですが、その製法は残念ながら失われており正確にはどのようなものだったのか分かりません。しかし、かつて大正の世の日本で醍醐味が発売されていたのをご存知でしょうか?現在のカルピスの前身となったラクトーより大正6年にクリームを発酵させた醍醐味という名の商品が発売されていたのです。  カルピスの創業者である三島海雲は浄土真宗の寺の子として生まれ、僧として得度も受けていました。明治38年に清朝に渡り貿易商をはじめます。明治41年に軍馬調達のために訪れていたモンゴルで体調を崩し、現地の人から頂いた発酵乳を飲んで体調を回復したと伝えられます。しかし大正4年、清朝での事業に失敗し、さらに辛亥革命で清朝が滅んで中国が成立したのを機に無一文で帰国します。失意の帰国かと思いきやそんなことはなく、モンゴルで自分を救った発酵乳を広げることで、日本に心とからだの健康をもたらす事を発願しさっそく研究にとりかかりました。さすが僧侶ですメンタルが強い。三島は人柄もよく支援者にも恵まれたとされ、帰国翌年には醍醐味合資会社を設立、更に大正6年にラクトー株式会社を設立し、先述の醍醐味を発売しました。ネーミングは明らかに仏教の影響です。醍醐味はクリームを発酵させたもので、牛乳からクリームを分離した後の脱脂乳も発酵させて醍醐素という商品名で発売し、これが後のカルピスの原型となります。しかし、生菌を使った...

五時八教の教相判釈

 五時八教の教相判釈とは天台宗に伝わる仏典の分類です。現実にはお釈迦様がお亡くなりになってから大量に作られた多様な諸経典も、当時は全てお釈迦様が説いたとものと考えられていたので、それぞれの経典の内容の矛盾をどうにかして解消するために、経典の分類とその時系列的なつながりの物語を作り上げたのです。  こうした分類は歴史学的に間違っているが故に昨今では批判や軽視される事もありますが、全ての人を救おうという大乗仏教の理念や、天台宗より生まれた数多くの鎌倉仏教などへ与えた影響などを考えると、歴史学は一旦おいておいて見るべきものがあります。本日は天台宗教学の入門書とも言うべき天台四教儀から五時八教の教相判釈を解説していきます。  五時八教のうち時系列の分類が五時の分類で、お経を内容や対象について分類したのが八教の分類です。八教の分類はお釈迦様の説法の仕方で分類した化儀の四教と、教説の作用で分類した化法の四教とに分かれます。これらは相互に関係しあっていますがまずは五時の分類から説明します。  まず五時の第一は華厳の時です。お釈迦様が悟りを開いたそのままの内容を説いた時期で、その内容をまとめたお経が華厳経だとしています。華厳経に「初発心時便成正覚 所有慧身不由他悟 清浄妙法身 湛然応一切」とあります。その意味は、「最初に悟りを目指そうとする心を起こした時に悟りは達成される、仏にそなわる智慧は他人の助けによっては起きない、清らかな仏の身はこの世の全てのものにあふれて応じてくれる」となります。大乗仏教の如来蔵思想に通じる考え方です。 お釈迦様の悟りは大乗仏教のそれであったと主張していることとなります。 また、華厳経は奈良の大仏で有名な盧遮那仏を中心として説かれています。盧遮那仏は密教で言う大日如来のことでこの世の全てを包含する仏様です。さて、そんな華厳経ですが、お釈迦様が盧遮那仏としての荘厳なお姿でこのお経の内容をそのまま説いた所、誰も理解してくれなかったとされます。  五時の第二は鹿苑時です。高等な話を理解してもらえなかったお釈迦様は、一介の修行者の格好にもどって、かつての修行仲間がいる鹿苑を訪れ、誰にでもわかる内容の説法をされたとしています。この時に説かれたのが阿含経と言われる歴史学的には最古の仏典群です。ここでの教えは、以前紹介した四諦八正道、十二因縁、六度などです。すなわち、物...

社会制度的人種差別

 昨今の黒人差別反対デモや武力闘争あるいは略奪・暴行・破壊行為などの報道で、なぜ彼らが暴力を行使するのかを説明する際に、"Systemic racism"という言葉がよくみられる様になりました。日本語で言うと社会制度的人種差別という感じです。  長い間、差別を受けてきた黒人などのマイノリティーはアメリカ国内で居住地、借金やローン、教育、就労、医療などのあらゆる面で社会的な不利益をこうむってきました。その結果、彼らは総じて貧乏であり居住環境や栄養・健康の問題をかかえ、十分な教育を受けられず、そのせいで次の世代も貧困となりそれが社会制度的に続いていくのです。また、仮にある黒人が人一倍努力して良い大学を良い成績で卒業できても白人よりも不利な就職しか出来ないという事態も続いてきました。犯罪に関しても同じ犯罪を犯しても逮捕から裁判そして刑の執行に至るまで、白人よりもひどい扱いを受けて来たとされます。  このような社会的不正義に対して、非白人はアメリカ建国以来ずっと抵抗してきましたが、現在も差別は制度として社会に定着しており、もはや通常の手段では問題を解決することは出来ない、だから悪しき社会に対するあらゆる破壊活動は許容されるべきだと言うのが、暴力を肯定する人たちのロジックとなっています。この理屈では、差別とは無関係そうに見える一般の商店も、実は全て人種差別の結果出来たものなのです。そういう視点だと、辺り構わず略奪・暴行の限りを尽くしてもそれは正義なのです。  日本での報道でもこの論法で暴力を肯定する物が散見されます。しかし、暴力に頼れば事態は改善するのでしょうか?私には暴力が社会的分断と憎しみと差別を拡大させているようにしか見えません。また暴力を肯定する文脈で社会制度的人種差別という言葉を使うと、社会制度的人種差別の本来の問題点が軽視されてしまいます。暴力以外の手段でこの問題が解決されるように祈ります。

剣道と仏教

 剣道と言えば道場に神棚があってどちらかと言うと神道というイメージが強いですが、禅宗など仏教の影響も強く、剣禅一如(剣も禅も究極的には同じ)という言葉もあるくらいです。禅の指導で師と弟子が協調する卒啄同時という考え方も多くの剣道人に引き継がれています。  また、自他不二という仏教の言葉も多くの剣士が使っています。昭和の剣聖の一人である斎村五郎先生も自他不二の心を大切にしていたと伝えられます。自分も他人も全ては平等で同じものだと見るこの考えは、勝負の相手にも適応されます。  斎村五郎先生は、武術教育は勝負に勝つためでなく人間を形成するためにあると考えておられました。斎村の先生であった楠正位も「剣道は武士道を実行する為に修行するのだ。武士道を離れた技術だけなら虎狼の如きである。」と言っていました。元来、剣術は相手を殺す技術なだけにその研鑽を積んだ者は、強く己を律する必要があるのです。示現流の開祖である東郷重位も、日頃は刀の鍔をこよりで固定してすぐには抜刀できないようにしていたと言います。やむを得ず切る場合にも、義によってであり己の欲望の為であってはならず、相手への憎しみや怒りに心が支配されてはいけないのです。  日本に伝わる剣道、茶道、華道、香道などなど、道がつくものは単に技術の習得を目指すためだけでなく、日本の伝統的な精神文化を伝えるものでもあります。特に剣道などの武道は他人を傷つけうる技術であるがゆえに、その技術はそれを学ぶ自分自身を律する精神と不可分の「道」として伝えられていたのです。武道が礼を重視するのはそのためです。伝統的な道でなくても、日本人は何らかの技術と精神性をあわせて指導する時には何々道という新語をつくりがちなのは、この影響かと思われます。  しかし、昨今、スポーツと化しつつある日本の武道にこうした精神性はいかほど伝わっているでしょうか?武道も仏道も神道も廃れつつある今日、道の復興に努めたいものです。