スプラッシュ・マウンテンのテーマ変更に関する日米世論の違い
アメリカのディズニーランドほか世界3ヶ所にあるアトラクションのスプラッシュ・マウンテンが人種差別的だとして、アメリカ国内の2ヶ所ではそのテーマが変更されることとなった。東京ディズニーランドにもある施設でこちらもテーマの変更が検討されている。それぞれ30年くらい前からあるアトラクションなので、初期に子供連れで楽しんだ人たちなどは、3世代に渡っての楽しい思い出があるかもしれない。
今回はこの問題に関する日米世論の違いについては考えてみた。大規模調査を行った訳ではなく、ネット上の書き込みからの印象だが、英語での書き込みは変更支持派が多く、日本語のそれは変更反対派が多い。この結果の考察に先立ち、前提となる経緯を少し長めにお話しするので、よく事情をご存知の方は最終段落まで読み飛ばされたい。
さて、スプラッシュ・マウンテンの内容は丸太のボートに乗ってウサギどんの童話の世界をめぐるもので、笑いの国を目指して旅立ったウサギどんがキツネどんやクマどんに追いかけられながらも、最後に帰り着いた故郷が笑いの国であったと気付き大団円となる青い鳥のようなお話だ。終盤に滝壺を模した場所に水しぶきを上げながら落ちるジェットコースターの丸太のボートがこのアトラクションの見どころとなっている。
この内容だけだと一体なにが人種差別的なのか理解に苦しむと思うが、実はアトラクションの内容ではなく、このアトラクションのテーマが問題となっているのだ。ディズニーランドのアトラクションにはそれぞれテーマとなる原作があるが、スプラッシュ・マウンテンに関してはテーマとなった原作映画を見たことがある人は少ないだろう。スプラッシュ・マウンテンの原作である1946年公開の「南部の唄」という作品は人種差別的だとの批判を受けて1986年から封印作品となっている。封印されたのは、スプラッシュ・マウンテンが最初に稼働する1989年より前のことなので、はじめからテーマを差し替えるという手も当然あったが、ディズニーが「南部の唄」を使って人種差別を助長する気など毛頭なかったのは明らかだし、アトラクションの内容自体には特に問題がなかったのでそのままにされたと思われる。様々な違いを超えた融和を唱えるディズニー映画では「ズートピア」が有名だが、主役のウサギとキツネは「南部の唄」を意識したものだろう。多くの人に愛されながら封印を余儀なくされた不遇のキャラクターに、ディズニーの真意を告げる役割をもたせて蘇った作品とも言える。スプラッシュ・マウンテンがこれまで残ってきたのも、ディズニーのキャラクターに対する愛情であったのかも知れない。
では、人種差別的だとされた「南部の唄」はどういう作品だったのか?舞台は南北戦争後の南部、引っ越して来て寂しい思いをしている白人の男の子が黒人の老人から昔話を聞かせてもらい友情を育んでいくというストーリーだ。この時語られた昔話がウサギどんを主人公としたもので、実写とアニメを融合させた作品となっている。劇中で語られる昔話は3つありスプラッシュ・マウンテンではそれら3つを合わせて新しい一つの物語としている。「南部の唄」では、まずキツネどんの罠にかかって宙づりになったウサギどんが、キツネどんの仲間であるクマどんを騙して脱出に成功する話が語られる。次にキツネどんが罠として作ったタール製の黒人の人形に捕らわれたウサギどんが、キツネどんをそそのかしウサギどんをその住処に投げ入れさせて危機から逃れる話が語られる。最後にキツネどんとクマどんに狙われるウサギどんが、楽しい笑いの国があると嘘をつき彼らを蜂の巣がある穴に誘導しキツネどんとクマどんが蜂に刺されている間にその難を逃れた話が語られる。一方のスプラッシュ・マウンテンではウサギどんは本気で笑いの国を目指して家を出てキツネどんとクマどんに追いかけられる。罠から逃れたり2匹を蜂の巣に誘導するのは同じだがタール製の人形は出てこない。原作では返事も挨拶もしない無礼な黒人の子供(実はタール製の人形)をウサギどんが殴る事で罠にかかるので絵的にも倫理的にもアウトだが、スプラッシュ・マウンテンでは蜂蜜で身動きが取れなくなったウサギどんが自分を住処に投げ入れさせる部分がタール坊やの話の流用となっている。そうして帰り着いた故郷こそが笑いの国でしたと言うのはスプラッシュ・マウンテンのオリジナルだ。
ここまで読んで、ああ、このタール坊やの話が主な批判の対象だったのかと思った人もいるかもしれないが、それは批判の本筋では無い。そもそもタール人形の類話は黒人の昔話でよく出てくるもので、ウサギどんもキツネどんもクマどんも実は黒人を模したキャラクターだとされ、この話の批判もあるものの白人による黒人差別とはややベクトルが違うと言える。
では何が問題だったのか?この問題には、一般の日本人が知らない、知っていても実感の無い歴史的背景が大きく関与しており、これが日米の世論に大きな差がある原因だと言える。この映画の何が批判にさらされたのかの結論を言うと、南北戦争直後の時代に黒人と白人が友情を育んだ描写がある事だ。歴史的にそんな事はあり得ない、歴史の歪曲だと言うのが批判の主な焦点だ。そう言うと当然反論はあるだろう。例えば「アンクル・トムの小屋」に描かれたような白人と黒人の心の交流はあったのでは無いか?と言うものだ。しかし、あの作品では白人と黒人の地位の差は明白であり、対等な友情などではあり得ない。ごくまれに異人種間の友情が成立していたとしても、その違和感がまるで描かれていない「南部の唄」はやはり虚構なのだと言える。しかし、それでも反論はあろう、虚構でも良いでは無いか、黒人と白人の友情の成立という理想を描いて何が悪い、と言うものだ。この考え方は日本人に多く見られるが当事者の目線が欠落している。例えば、第二次世界大戦中のナチスドイツに占領されているポーランドで、ヒトラーユーゲントの少年とユダヤ人のラビが友情を育み、第三帝国政府も街中の人もそれを祝福してみんな仲良くハッピーエンドとなるような映画が特にパラレルワールドの設定とか無しにあったとすれば大バッシングを受けるのは間違いない。このレベルであり得ないと感じているから黒人たちは「南部の唄」に怒るのだ。それでも、スプラッシュ・マウンテン自体には差別的要素は無く良いでは無いかとの意見もあろう。確かにそれには一理あるが、被害者側は関連する物を見たくも無い訳で配慮は必要だろう。ネット上では日本語での書き込みの多くや、英語の書き込みでも一部には現在のテーマの存続を希望する意見が見られる。特に差別とか思わずに親子や孫に至るまで共有した楽しい思い出があるスプラッシュ・マウンテンが、人種差別の汚らわしいアトラクションよと罵られ消えて行くのは何とも悲しい事だろう。皆が楽しい笑いの国を持っているんだとのメッセージも、その本体がこうした抗議により封印されるのをみるとやるせない気分になる。その気持ちは分かる。同様の批判にさらされた「風と共に去りぬ」は注釈つきで復活したが、ディズニーの社風からして「南部の唄」やスプラッシュ・マウンテンが復活することはあるまい。関連する歌や曲まで封印されるかは分からないが、その可能性も否め無い。スプラッシュ・マウンテンに相応の思い入れがある人は今のうちに関連グッズを購入しておいた方がいいかも知れない。
よって結論としては、スプラッシュ・マウンテンを認めるかどうかの日米で意見の差は、その背景に対する歴史認識の差によると言える。それが分かったところで両者の妥協は難しいかと思われるが、違う意見の持ち主を罵倒する前に、相手が何でそう言う意見なのかに思いを致せば、冷静な議論も可能になると信じる。今回のテーマの変更は既に決着したと言って良いが、楽曲やスプラッシュ・マウンテンに込められたメッセージについては注釈つきでも良いから何らかの形で残る事を祈る。
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