剣道と仏教

 剣道と言えば道場に神棚があってどちらかと言うと神道というイメージが強いですが、禅宗など仏教の影響も強く、剣禅一如(剣も禅も究極的には同じ)という言葉もあるくらいです。禅の指導で師と弟子が協調する卒啄同時という考え方も多くの剣道人に引き継がれています。

 また、自他不二という仏教の言葉も多くの剣士が使っています。昭和の剣聖の一人である斎村五郎先生も自他不二の心を大切にしていたと伝えられます。自分も他人も全ては平等で同じものだと見るこの考えは、勝負の相手にも適応されます。

 斎村五郎先生は、武術教育は勝負に勝つためでなく人間を形成するためにあると考えておられました。斎村の先生であった楠正位も「剣道は武士道を実行する為に修行するのだ。武士道を離れた技術だけなら虎狼の如きである。」と言っていました。元来、剣術は相手を殺す技術なだけにその研鑽を積んだ者は、強く己を律する必要があるのです。示現流の開祖である東郷重位も、日頃は刀の鍔をこよりで固定してすぐには抜刀できないようにしていたと言います。やむを得ず切る場合にも、義によってであり己の欲望の為であってはならず、相手への憎しみや怒りに心が支配されてはいけないのです。

 日本に伝わる剣道、茶道、華道、香道などなど、道がつくものは単に技術の習得を目指すためだけでなく、日本の伝統的な精神文化を伝えるものでもあります。特に剣道などの武道は他人を傷つけうる技術であるがゆえに、その技術はそれを学ぶ自分自身を律する精神と不可分の「道」として伝えられていたのです。武道が礼を重視するのはそのためです。伝統的な道でなくても、日本人は何らかの技術と精神性をあわせて指導する時には何々道という新語をつくりがちなのは、この影響かと思われます。

 しかし、昨今、スポーツと化しつつある日本の武道にこうした精神性はいかほど伝わっているでしょうか?武道も仏道も神道も廃れつつある今日、道の復興に努めたいものです。

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