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アンパンマンと菩薩行

 明日、5月1日でアニメのアンパンマンが1500回を迎えるとのこと、おめでとうございます。自分が子供の頃はまだアニメ化されておらず、今とは違う絵柄の絵本が主流でしたが、ひもじい思いをしている人を助けるというコンセプトは今と変わっていません。  作者のやなせたかし氏はアンパンマンの他にも童謡の「手のひらを太陽に」の作詞でも知られています。みみずだってオケラだってアメンボだってみんなみんな生きているんだ友達なんだ、という歌詞などは、一切の命に対する同朋意識の現れにも思えます。ご実家は真言宗だったようですので、もしかしたら仏教の影響もあるのかも知れません。  実際にどの程度、仏教の影響があったのかは分かりませんが、アンパンマンは常に困っている人を助け、文字通り自らの身体を削って空腹の人を助け、貪りの心を持たず、悪に対して屈すること無く、しかも相手が悪であっても殺生はせず、怒りに取り憑かれることもなく、驕ることも無く、極端な行いを避ける智慧を持っています。その結果、日頃はアンパンマンに助けられている人たちも、アンパンマンが窮地に陥った時に助けに来ます。あの世界は菩薩行の世界のようにも見えます。  一部に、アンパンマンが暴力的だという批判もありますが、アンパンマンは悪いことをするバイキンマンにあっても、「やめるんだバイキンマン」などと、まず悪いことをやめる様に警告を発するか相手が使用している凶器を破壊するなどします。説得が失敗した場合に「許さないぞ」と最終的な警告を行い、それでも襲いかかって来た場合にアンパンチを使用するのです。しかも、バイキンマンは多少は痛い目にあいますが、死にませんしすぐに回復する程度の攻撃です。これを暴力的だと言うのなら、悪者に立ち向かわずにいるのが善いのかという話にもなります。  既に作者は亡くなっていますが、今後も良い作品が生まれるように願います。合掌。

PCR検査の小話

 知っている人は知っている話ですがPCR検査の有用性に関して少々。  質問です。とあるPCR検査で、とあるウイルス感染者を正しく感染者だと判定できる確率が70%、感染していない人を感染していないと正しく見抜ける確率が99%のものがあったとします。とある町の人口の1%の人が感染者であった時に、この町の住人全員にこのPCR検査を行ったら、検査で陽性とされた人のうち実際の感染者は何%になるでしょうか?  答えは41%です。6割くらいは感染者では無いのに陽性が出たことになります。  質問その2です。ではこの町の人口の50%が感染者であった場合に、この町の住人全員にPCR検査をしたら、陽性とされた人のうち実際の感染者は何%になるでしょうか?  答えは99%です。陽性がでればほとんど感染者だとみなしてよい事になります。  つまり、感染の拡大がわずかな時に症状のない人も含めて広くPCR検査を行っても陽性的中率が低いのです。この場合では症状や経過で対象者を絞り込んで検査しないと感染の連鎖を追うクラスター対策に支障を来しかねません。逆に感染者が拡大してしまって、クラスターのリンクも追いにくい状態になっていれば、陽性的中率は上昇しているので、検査数を増やした方がよい事になります。ただし同時期に50%も感染している人(回復者は含まない)がいる状況はあまり現実的ではありません。もちろん全員を隔離して何度も検査すれば封じ込めも可能でしょうが、物理的に現実味がありません。  検査実施の是非は状況によって変わるのです。  ※ 上記計算の途中経過も書いておきます。  人口の1%が感染者の場合、検査で陽性となる感染者は人口の0.7%で、検査で陽性となる健常者は0.99%です。感染の有無を問わず陽性となったのは人口の1.69%ですので、陽性になった人のうち実際の感染者の割合は0.7/1.69で約41.42%で、小数点以下一桁を四捨五入して41%です。  人口の50%が感染者の場合、同じく検査で陽性となる感染者は人口の35%で、検査で陽性となる健常者は人口の0.5%ですので、陽性となった人のうち実際の感染者の割合は35/35.5で約98.59%で、小数点以下一桁を四捨五入して99%です。

今こそ慈悲です。

 慈悲は仏教の根幹の一つです。慈は人々に楽を与え、悲は人々の苦を除く事です。慈悲は元々は仏や僧から衆生(人々)に施されるものですが、大乗仏教においては在家の信者も仏を目指す菩薩として生きていますので、全ての人々がお互いに楽を与え苦を除く助け合いの社会が実現されます。  仏教では全てのものは移ろいゆき、全ての自我は関係性の中にしか存在せず確固たる自分と言うものは存在しないと説かれます。全ての他人や環境などが自分に影響を及ぼし、自分もまた世界に影響を与えて存在しているのです。その全ての要素が仏になれると考えられており、世界は仏で満たされていることになります。密教では世界全体が大日如来の現れと見ていますし、他の大乗仏教諸宗派でも類似の思想がみられ、世界はみな仲間だとも言えます。  特に日本風の仏教では、先祖への敬意も相まって仲間意識が強いです。例えば、日本独自の仏教行事にお彼岸がありますね。皆さんもお彼岸に墓参りにいくこともあるかと思います。この行事は、仏教伝来前より日本にあった風習が仏教に取り込まれたものと考えられています。よく日本社会は巨大なムラ社会だと言われていますが、こまった時はお互い様といった、日本人みな家族的な発想は、伝来思想である仏教にも取り込まれて独特な発展を遂げてきました。  しかし、近現代になって仏教や神道の信仰が廃れたことにより、この基本的な日本人の思想は形を変えてしまい、その結果として今の同調圧力の強い社会が出来ていると言えます。はたして、日本の伝統宗教が衰退した影響で消えたものは何でしょうか?それこそ仏教的な慈悲の心であり、神道的な家族愛の心です。この愛と慈悲が無ければ日本風の社会は単に他罰的な相互監視の社会でありディストピアとすら言えます。  過酷な環境にある現在だからこそ、社会に慈悲の心が取り戻されるように精進して参りましょう。南無佛。

経済活動の再開について考える

 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い自粛が呼びかけられている経済活動はいつどのように再開されていくのか考えてみました。  基本的には、経済活動の再開により増加する感染症による死者数と、経済活動の停滞による死者数のどちらがより多いかの「予測」によって経済活動の再開は段階的になされるはずです。経済活動の停滞による死者には、自死や餓死、治安の悪化に伴う犯罪に伴う死亡、インフラの障害による通常なら死ななかったであろう死者の増加などなどが含まれます。    しかし、この予測を正確に出来る人間はこの世に存在せず、経済活動再開の判断は慎重にならざるを得ません。つまり、未知の感染症について安全に余裕をもった判断をする以上は、経済的な被害に関しては最適解よりも大きくなる傾向はあるのです。  更に、問題を複雑にしているのは、日本の経済活動の停止はあくまでも自粛であり強制力を持っていない事です。つまり、経済活動を行おうと思えば出来るのですが、それはあくまでも自己責任です。行政は要請すれども責任は取らない立場です。個人や会社が個別に経済活動を停止させずにいて、もし何か問題が生じた場合は、法ではなく社会的な制裁が発生するであろうことを予見したうえで、行政は自粛要請をしています。  実際に、自粛要請があっても経営を続けてクラスターを発生させた事業主は社会から猛烈なバッシングを受けます。みんなの命がかかっているのだから当然です。しかし、行政が活動停止を命令し、その間の補償を行えていれば、そもそも発生しなかった問題でもあります。政府もいくらかの補償はしていますが、たえきれずに倒産する企業も増えています。  こうした命令ができるように法律を改正するのも一つの手ではありますが、今からやっても手遅れ感が強いですし、社会や政治の情勢をみるに、この手の法改正が問題のない内容ですぐに成立する可能性はありません。少なくとも現在の問題に関しては社会の同調圧力に期待した施政を行うしか無いのでしょう。  これらの状況を考えると、経済活動の再開は段階的で、感染者数の推移を見ながら何度かの自粛要請と規制の緩和を繰り返す形になっていくと予測します。初回の緩和は来月か再来月には行われると思いますが、最終的に全部解除になるまでには年単位の時間がかかるとみています。この予測は外れるかも知れませんが、現時...

八大人覚

 日本に曹洞宗を広めた道元禅師の絶筆である「正法眼蔵」のなかで道元禅師が最後に書かれた巻が「八大人覚」です。  八大人覚は、元々はお釈迦様がお亡くなりになる前に説かれたとされる遺教経にある出家僧が覚知すべき八つの教えです。正法眼蔵の八大人覚の巻はこれの解説で、道元禅師も自らの死を覚悟して書かれたのかもしれません。  その八大人覚は以下の八つを指します。小欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論、です。  八大人覚のそれぞれ意味を簡単に説明します。はじめの小欲と知足は小欲知足として有名な言葉ですね。欲を少なくして満足することを知るという意味です。楽寂静は一人で静かな場所にいることを願うという意味です。勤精進は、善い事をするように勤める事です。不忘念は、正しい仏法を心に念じ続ける事です。修禅定は、仏法の中にあって心が乱れない事です。修智慧は、偏らないものの見方が出来る悟りの智慧で、全ての仏教者が目指すところです。不戯論は、執着や偏見に基づく無駄な議論を避けるとの意味です。  これは出家僧向きに説かれた教えですが、欲を少なくして満足し、一人静かに善行を修め、仏法の中にあり心を乱さず智慧を持って、無駄な争いを避ける、この生き方は、厳しい世にあって在家も大いに参考にすべきものがあります。  穏やかに生きていける事を願って、合掌。

十悪と十善

 前回、四悪の話をしましたが、四悪は十悪の四番目から七番目の口による悪でした。今回はその元となる十悪とそれから作られた十善についてお話します。  十悪は体と口と心が生み出す十の悪行で、一番目から三番目までが身業(体により生み出される悪)で、生き物を殺す殺生、物を盗む偸盗、よこしまな性行為である邪淫があてられます。以前に六波羅蜜の回で紹介した 五戒 のうちの三つと同じですね。  四番目から七番目は前回の 四悪 でお話しした、うそやいつわりの「妄語(もうご)」、誠のない飾り立てた言葉の「綺語(きご)」、ののしる言葉を発する「悪口(あっく)」、人を仲違いさせるための「両舌(りょうぜつ)」、を指します。これらは口業とよばれる口が生み出す悪です。前回は妄語と悪口に焦点をあてましたが、今回は残りの二つを見ていきましょう。  綺語はどこが悪いのでしょうか?言葉を飾り立てて相手にいい気分になってもらうのは一見よい事のようにも思えます。ですが、飾り立てている内容が嘘なら妄語になりますし、過剰に飾り立てた言葉は相手の慢心を招き、その人の為にもなりません。また、そもそも飾り立てる動機にやましいことはないでしょうか?綺語の多くは権力者などに対して用いられ見返りを期待するものです。それを発する人の貪りの心の現れではないか、よくよく用心しなければなりません。  両舌はどうでしょうか?仏教はその発祥のころから、悟りを開いた仏と、仏が説いた法と、それを奉じる仲間である僧を、三宝として大切にしてきました。初期仏教で僧といえばもちろん出家僧の事で、大乗仏教でも一般には僧侶の事ですが、後者では悟りをひらく主体はむしろ在家信者であり、仏教を奉じる仲間の和も大切にしてきました。人の仲たがいを誘い和を乱す言葉はまさに言語道断なのです。  八番目から十番目は、心が生み出す悪であり意業とよばれます。むさぼりの心である貪欲、怒りの心である瞋恚、智慧のない愚かさの邪見(愚痴)、の三つです。数ある煩悩のなかでこの三つは三毒とも呼ばれる、煩悩の根源です。仏教者は煩悩を滅して悟りの智慧を目指して日々生きているのです。今風のロールプレイングゲーム風に言うなら倒すべき煩悩軍団の大ボスが貪欲と瞋恚で、ラスボスが邪見ということになります。まさに悪ですね。  さて、これが十悪なのですが、では仏教が勧め...

四悪

 仏教では、体や口や心が生み出す特に悪い十の行いを十悪とよんでおり、その四番目から七番目までが口から出る悪で、この四つを四悪(しあく)といいます。    その四つとは、うそやいつわりの「妄語(もうご)」、誠のない飾り立てた言葉の「綺語(きご)」、ののしる言葉を発する「悪口(あっく)」、人を仲違いさせるための「両舌(りょうぜつ)」、を指します。  新型コロナウイルス感染症の拡大による緊急事態の状況で、多くの悪口や妄語が飛びかっており、疲れてしまっている人も多いでしょう。  今回は、はびこる悪口や妄語への対処法を考えていきます。  誰かをののしる悪口をつかう人はその相手が悪いと思ってののしっています。ですが、相手がもし本当に悪いとして、ののしれば相手が反省して正しくなることがあるでしょうか?ののしりは相手の敵意をかきたてるだけです。もし悪い人がいるのなら何が悪い思われるのかを指摘してあげるのが良い方法です。もし相手に悪いことをしているつもりがなければ、当然反論されるでしょう。よくよく聞くと相手の方が正しいことがあるかも知れませんし、お互いに改善するべき点が見つかるかも知れません。相手も悪いと思っていた場合も、いきなりののしれば反省する気も消えます。冷静に説得する方が事態の改善には有用です。そのことを悪口をつかう人に教えてあげると、悪口が不毛な事に気づいてもらえるかも知れません。ただ、周囲にあまりにも悪口があふれて心が折れそうな時には、少し悪口の主から距離をとるのも一つの手です。自分の身を守るのも大切な事です。  妄語はどうでしょうか?妄語の場合も何らかの悪意をもって嘘の情報を流す人もいますが、自分では本当の事だと思っている嘘を悪意なく広げてしまう場合もあります。後者の場合は道義的な責任を問えるかに疑問もありますが、嘘の情報が信じられたら人命に関わることも起きえます。自分が流布する情報が本当かどうかはしっかり吟味する必要があります。SNSで情報を拡散したりイイネを押したりする前に、その情報が本当かどうか考える時間を少しでも設けると妄語の連鎖を一部ですが断つことが出来ます。  冷静に極端を離れた智慧を持つことが四悪の害から自分を守るのです。  まだまだ先は長いですが、精進して参りましょう。合掌。