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核戦争の危機

 プーチンの戦争と核恫喝があるにも関わらず、世間はあまり危機感を持っていない。米ソ冷戦時代を知る世代でも核戦争の危機を感じている者は稀だ。常識的に考えれば、核戦争のリスクまでおかしてロシアが核兵器を使う可能性はさほど高くは無いのだろうが、プーチンは理性的な予測をことごとく裏切ってきた。ロシアの核兵器不使用論に安心できるほどの根拠はない。  プーチンが核兵器を使うか否かは心配してもどうしようもないことではある。しかし、あまりにも無関心で脳天気なのもいかがなものか?少し警戒しておいた方がいい。逆に、危機感を感じている者の中ではプーチンの恫喝に屈するべきだというような唾棄すべきファシストも目立つ。  もし核兵器が使用されても、報復攻撃があるかどうかは分からない。報復攻撃があっても局地的な核戦争で済むかも知れない。だが、仮に全面核戦争となっても人類が完全に滅亡することも無いだろう。  自然災害も多い日本だし、防災グッズや非常食など今一度確認しておくくらいは危機感をもって欲しいところだ。

社会活動の目標は成就しないが努力は続けなければならない

 社会貢献を目的とする活動は、それぞれ何らかの理想像というものがある。だが、社会がかくあるようにと努力をしても、所詮は諸行無常であり理想の社会が達成される日は来ない。ならば、社会活動は無駄なのかというとそうでもない。世の中の酷さがこの程度で済んでいるのは、この世を良くしようとする人達が一定数いるからであって、人々が抵抗しなければあっという間に不正と暴力が支配する地獄に成り果てる。その意味において、武力と経済とをある程度コントロールしうる権力者が国民によって選ばれる民主主義制度が機能している国は比較的安全だ。しかし、それも国民の倫理観が崩れてしまえば同じことだ。  弱者から奪い取るのを是とする考えの人は意外と多い。実際には彼らの大半も奪われる側の人間にも関わらずだ。自分より立場の弱いものから奪えると思うからこその発想だが本当に得をするのはごく一部に過ぎない。貪りの心に目が曇れば自分が被害者であることも分から無いばかりか、非道なる加害者にもなってしまう。  社会的弱者からより苛烈に取り立てるために陰謀論も利用される。この世に悪をばら撒く弱者のふりをした恐ろしい勢力を倒せばこの世が良くなるという荒唐無稽な妄想を信じて、昔から多くの弱者達が差別・搾取されてきた。この構造は今でも変わらない。特にネット上では社会のマジョリティが弱者を圧倒的に強力な悪とみなして正義の戦いを挑むのだが、単なる弱い者いじめだ。  菩薩たらんとする者は、このような収奪を許してはならない。迎合して弱者叩きをするなどもっての外だ。社会は理想の状態にはできなくてもそれを目指す努力が続けられなければ維持できない。

無添加の表示

 先日、消費者庁から発表された「食品添加物の不使用表示に関するガイドライン」では今まで野放しだった誤解を招く表示に規制がかけられる事になりました。  一部の自然派などと呼ばれる人たちが食に関して天然や生を好み人工や化学や合成を嫌う傾向はもはや病的とも言えます。現在、日本で流通している食品添加物は決められた通りに使う分には安全です。むしろ加工食品に保存料が使われていない方が健康には有害であると言えるでしょう。食中毒をなめたら死にます。細菌やカビや毒物など天然素材にも危険がいっぱいです。清潔に生産され安全性が確認された食品添加物を毛嫌いする意味が分かりません。また、食品添加物にも灰汁などの天然素材はあります。  自然派の誤った知識が広められた事により、無添加!合成(化学・人工)なんとか不使用!と煽り文句を商品につければ売れる現象が起きました。しかし、自然派が直接扱っている不衛生で危険な食品以外では実は食品添加物が全く使われていない加工食品は稀です。つまり、日頃スーパーマーケットなどで見かける無添加!無使用!などの表示はほとんど嘘っぱちの詐欺なのです。  今回のガイドラインは主にこうした不当表示を廃し、食品添加物に植え付けられた誤った印象を解消する狙いがあります。例えば、無添加!とだけ書かれていれば、騙されている消費者から見たら危険な薬品が添加されていない安心な食品に見えますが、何が添加されていないのか書かれていません。これまでは、元々使う予定のない添加物が添加されていなければ無添加と書けてしまいましたが、今回のガイドラインでは規制され何が無添加なのか書かなくてはなりません。また、保存料不使用!と書きながら類似薬品の日持向上剤を添加するような紛らわしい表示も禁止されます。他にも、そもそも使ってはならない薬品を使ってませんとわざわざ強調して書く事を禁じるなど、様々な詐欺的表示が規制されるようになりました。  こうした詐欺も、食品添加物が危険だという誤ったデマが広く流布されているから起きるのです。正しい科学知識を広めていくことが、被害者を減らすためには必要と言えるでしょう。

アファーマティブ・アクション

 某ウヨク作家のマンガで表現の自由を規制する悪人が使う技の名前の一つが「アファーマティブ・アクション」だった。これは割と冗談ではない話で、彼らが言う「表現の自由」とは実は表現の自由ではなく強者による弱者の圧殺であることを物語っている。  アファーマティブ・アクションとは何か?直訳すれば肯定的処置となるが、差別の解消を目指して被差別層に様々な便宜をはかることだ。例えば性別や人種などに対して社会の構造的な差別がある場合、被差別集団は十分な教育が受けられなかったり経済的に苦しい立場にある為に、社会において力を持てずに構造的差別が再生産され被差別集団は不当な弱者であり続けてしまう。こうした構造を覆すには機会が均等なだけでは元からの条件が悪い被差別層には不利であり平等とは言えない。だから、機会ではなく結果が平等になるようにするのがアファーマティブ・アクションだ。例えば黒人差別が根強いアメリカの大学入試においては、受験者が黒人であるだけで点数が加算され合格しやすいようになる。こうして社会で力をもつ黒人が増えれば構造的な差別は徐々に解消されていくことが期待される。アメリカでは現在でも黒人への差別は続いているが、アファーマティブ・アクションが始まった1960年代と比べると大きく改善している。構造的な差別が解消されてくれば、不利益を被る側の不満が強くなりアファーマティブ・アクションは緩和される社会的圧力が生じる。実際に、カリフォルニア州では黒人に対する受験での加点は終了している。  これに対して日本では、女性の受験者を減点して差別を推進する医科大もあった。就職や昇進に関しても不透明な基準で女性が不利益を被る例も多い。まず機会が均等になるだけでも日本では進歩だと言えよう。こんな状況だ。冒頭のマンガでもあったが、日本では右派に限らずにアファーマティブ・アクションには否定的な人が多い。彼らがこれを否定する根拠の一つに、アファーマティブ・アクションを行うことは最良の結果につながらないというものがある。  例えば、入試における女性差別では女性受験者の点数が減点されていた訳だが、女性だからといって減点するなという意見まではそこまで反対する人はいない。一部の差別主義者は女性の減点は当然であるとまで言っていたがまあ少数派だ。現在は女性に対する減点はほぼ解消され、令和3年度の医学部受験では男女の合格率...

感謝の言葉

 布施とは自らの執着を捨てる修行である。お金なり物なり笑顔なり優しい言葉なり労働力なり、それらを送った相手からの見返りや感謝を期待したのならば布施ではない。  もし、商売や打算で何かを相手にしてあげたのなら、その行為が有効だったかどうかが主たる問題だ。相手が礼を言ってくれればありがたいことだが、礼を言われなかったとしてもどうという事はない。  もし、もしだ。もしかして相手に礼を言わせるために何かをしてやったのなら、相手が礼を言わなかったことに対して「なんで礼の一言もねぇんだよゴルァ!」と詰め寄って、礼を言わせるという目的を達成する方法論もありうるのだろうと推察するが、そんな無理やり礼を言わせる行為になんの意味があるのだろうか?礼を言われたくて何かをしたのに礼を言われなかったのなら、相手を無礼となじるのではなく自らの不徳を恥じるべきだろう。相手が礼を言うに値しないと判断しているのに恫喝して礼を言わせても反感と不信を招くだけだ。  みなさん、読んでくれてありがとう。

昭和天皇

 4月1日に公開されたウクライナの対露戦支援の呼びかけ動画に、先の大戦のファシストの象徴として、ヒトラー、ムソリーニに加え昭和天皇の写真が使われていた。これに対し日本国内から反発がおき、外務省からもウクライナ政府に対し正式に抗議したところ、昨日、当該部分の写真は前二者のみとなりウクライナ政府が謝罪するという事があった。  ウクライナは戦時中はソ連に属しており連合国からの歴史的視点では、昭和天皇は紛うことなき大日本帝国の最高責任者であるのだから、こういう動画が作られても不思議はない。だが、日本側の立場とすれば、戦後に臣下の者達が文字通り命を捨てて陛下への責任追求を回避させたのであり、そのナラティブをひっくり返されては困る。この考えに日本国民の全員が賛同している訳では無いが、戦後からほぼずっと昭和天皇に戦争責任なしとする政党が政権与党をつとめてきたのであり多数派だと言えるだろう。日本政府がウクライナ政府に抗議したのは妥当だ。  昭和天皇がファシストの首魁のように扱われた事に不満をもった日本人は多かったが、ざっと見たところは高齢者と若者で怒りのベクトルがちょっと違ったように思われる。若者は人間としての昭和天皇に失礼だろうというものが目立つが、高齢者が問題にしているのは主に国体だ。  日本国憲法においても天皇は日本国の象徴だが、これは国体思想の現代語訳としては分かりやすい。つまり天皇にケチをつけるのは日本にケチをつけるのと同じであり、天皇=日本なのだ。  国体は使う人によって意味が変わると言っても過言ではない漠然とした概念だが、共通している考えは、日本というのは天の神の子孫である天皇が中心となって大家族のような国を形成しているというものだ。だから天皇なしに日本は成り立たないというのが基本的思想だ。  宗教的に見た場合も、天皇陛下は皇祖神と一体化した神であり、しろしめすべき国土日本をその神性の中に取り込んでおり日本そのものでもある。だから、もし今、日本国民の誰かが死んでも、明日も日本は日本であり続けるが、もし天皇陛下と天皇になりうる皇族が何らかの理由で全滅すれば、その瞬間に日本は滅びる。仮にそうなっても、国土と国民がいれば実務上も国号上も日本は残るだろうが、それは正確には日本ではなく日本によく似た別の何かという解釈だ。  人間宣言はしたものの昭和天皇は国体の中心概念たる現人神...

現実と虚構の区別

 世の中には現実と虚構の区別がつかない人が決して少なくない。映画やドラマの役の演技をみて、それを演じた俳優も同じだと思ったり、お笑い芸人たちが日頃から舞台のノリで生活していたりと思ってしまう人達だ。また、明らかな作り話である陰謀論を盲信して社会の秩序を脅かす輩も多い。  そういう現実と虚構の区別がつかない人達から人生を破壊された人も多い。リアリティーショーと称する他人の生活をのぞき見する体のテレビ番組に出演していた女性のプロレスラーが虚構と現実の区別がつかない視聴者からの嫌がらせで自殺に追い込まれた事件は記憶に新しい。加害者側でも例えば荒唐無稽な反ワクチン陰謀論を信じて犯罪行為にはしり逮捕され社会的信用も失う者がいるが、彼らとて誰かに騙されたのであり被害者でもある。  リアリティーショーや陰謀論を説く書籍などのデタラメをあたかも真実であるように誤認させ人命や他人の名誉を傷つけたり社会の脅威となる情報を、儲かるからと売り続ける企業には然るべき行政処置が可能となるような法の制定が望まれる。  また、こうした危険な情報を、広告費欲しさに掲載し続ける新聞社や出版社は特に酷い。これら新聞各社は紙面では正義を説きながら、広告欄では危険なデマや人権蹂躙やレイシズムや性的搾取を讃える。新聞社は昔から利益のためなら何でもする倫理なき組織であり、仮に日本が独裁国となれば独裁者を礼賛する記事で溢れかえる事だろう。  現実と虚構の区別がつかない人間はそこかしこにおり、彼らの盲信は多くの悲劇を生み出す。彼らを守るためにある程度のレギュレーションは必要だろう。特に彼らを騙し利益を得ようとする詐欺師たちには厳罰を求めたい。