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大量中絶

 報道によると世界では年間に約1億2100万人の子が望まれぬ妊娠として命を授かり、その内の61%が中絶されて生まれぬままに死亡するそうだ。また、望まれぬ妊娠は妊娠全体の半分にも及ぶと言う。  つまり、膨大な数の女性が、本人が希望しないのに妊娠させられていることになる。その結果として、大量の赤ちゃんが殺される。一体なんという地獄だろうか?  そしてこれは、生まれた子供の3割近くは望まぬ妊娠の結果生まれた子供であることを意味する。望まれて生まれた子供でもその後に虐待される例も、望まれなかったけど生まれてからは大事にされる子供もいるだろうが、そんなに多くの望まれぬ子がいるのは不憫な話だ。  これらは挙児を希望しない女性を妊娠させなければ解決可能な問題だ。要は男性が嫌がる女性を妊娠させなければ済む。プロライフ派は中絶を非難する前にそちらに文句を言うべきだろう。  しかし、プロライフ派は、何が何でも中絶を否定する。エルサルバドルでは、妊婦が転倒して流産しても中絶したとして収監された例もあるほどだ。アメリカでも事実上中絶を禁止する法律を成立させる州が増えている。これは強姦の被害にあった場合も例外ではなく、さらに緊急性のある状態でなければ母体保護の目的であっても中絶出来ない法律で、医学的妥当性はない。プロライフ過激派により中絶を施行する産科医が殺人者として私刑で殺される例もあった。ちなみにプロライフ派によると、女性が性行為を受け入れた時点で出産を望んだ事になるらしい。強姦の場合もしっかり抵抗しなかった方が悪いとかいう謎理論だ。  今回の報道で、大量の死者数が突きつけられた事によって、この酷い状況がより切実な実感をもって理解できた。膨大な数の女性が望まぬ妊娠を強いられていることも、その結果として、毎年日本の人口の6割ほどの人数の赤ちゃんが殺されていることも本当に恐ろしい。

潜在的暴力

 人間の社会には治安と秩序がある。これらを守っているのは法だ。そして、各国の中で法が滞りなく執行されるのを保証する暴力が警察だ。こうした公的な暴力の力が弱まる場所では私的な暴力が支配する無法地帯が発生しうるので、警察は国中に目を光らせている。  しかし、例えば各ご家庭の中には警察は理由なく介入できない。だから、暴力で家庭を支配する人間がいれば、その中では暴力を振るう人間の独裁が成立する。もちろん、人が死んだり怪我をしたりすれば警察が介入するのだが、多少の事は民事不介入でスルーされてしまう。そういう家庭では残念ながら、ひどい状態が続くことになる。そして、暴力的に支配を続けた人間(だいたい父親)は、老化によりその体力が落ちた途端に報復を受けることになる。  では、仮に父親が家庭内で最強の生き物だとして、誠実で道徳的な父親がいる家庭であればこうした問題は発生しないのかと言うと実はそうでもない。立場も体力も大人より弱い子供がわがまま勝手な言動をした場合は、親から教育的に指導されるだろうが、父親が子供と同様につい何かしらのいけない行為をしてもそこまで強くは言われないことが多いのではないか?この子供と父親を分ける差は暴力の潜在的能力の差だ。父親本人に暴力を振るう気が無くても、暴力を振るわれるかも知れないという恐怖を弱者側が持てば、弱者は強者の意に反しにくくなる。そして、圧倒的な能力の差の前に少しも恐怖するなと言う方が無理なのであり、家庭内で最強の人間は倫理的に自らを律する必要がある。逆に、家庭内で最強の存在が他の家族と完全に平等に扱われているのならば、それはものすごく信用されている証だろう。  家庭だけでなく、こうした潜在的暴力の強さは弱者の自発的忖度を招くのには十分だ。強者が倫理に厳しく縛られる必要があるのはこの為だ。もちろん、暴力とは単に筋力や武器の使用に長けていることのみを意味しない。知的水準の高さも経済力も縁故の濃さも全て暴力になりうる。何かしらの能力に自信がある人間は気づかぬうちに潜在的加害者にならないように用心した方が良いだろう。

ウィル・スミスのビンタ

 アカデミー賞の授賞式でプレゼンターから妻を侮辱されたウィル・スミスが相手を平手で殴った事件が話題になっている。同情的な意見も散見されるが、世論は総じて暴力の行使に対しては批判的だ。  ウィル・スミスは怒りに任せて相手を殴ったのだから、仏教的な解釈では忍辱の心が足りなかったのだと言える。ウィル・スミスは仏教徒ではないだろうから忍辱を守る宗教的義務は無いが、一般論として怒りを抑える技術は大切であり、やはり今回の事は褒められたものではないだろう。ところで、今回の彼の怒りの正体はなんだろうか?  実は、このプレゼンターが侮辱的な発言をした時、会場の多くの人は笑っていた。当のウィル・スミスも笑っていたように見える。妻は明らかに困惑した顔をしていた。ウィル・スミスの怒りは妻を馬鹿にされた事に対する直接的な怒りばかりではなく、それを笑ってしまった自分への憤りも相当分に含まれていたのでは無いだろうか?こうした経過から、そもそもの侮辱的発言は問題だけど、それを理由にウィル・スミスの暴力行為を肯定するには弱いと考えるのが多数派のようだ。  さて、世界的にはウィル・スミスに責任があるという世論が優勢であるように見えるが、実は日本ではそうでもなく、むしろ擁護意見の方が多いように感じる。家の名誉を守るという思想が現代にも息づいているからだろうか?江戸時代の鍋島藩の武家の心得を説いた「葉隠」では勝算や社会状況などを一切無視した即時的報復が是とされている。「葉隠」冒頭の「武士道とは死ぬこととみつけたり」とは、生き残りたいが為に、自分が死にそうな義務を放棄するのを戒める言葉だ。武士は当時の相互確証破壊のための装置だといえる。そこにあるのは怒りよりも報復の義務だ。こうした思想だと、ウィル・スミスは怒りに任せて暴力を振るったという印象よりも、家族の名誉を守るために義務を果たしたのだという印象が強くなる。  人はその根底となる考え方で随分とものの見方が変わる。まあなんにしても暴力は良くない。ウィル・スミスも反省のコメントを出していたし、穏便に解決するように祈る。

ミャンマー軍が民主派を全滅させると宣言

 ミャンマー軍のミン・アウン・フライン総司令官が27日の演説で民主派を指してテロリストとよび、これを全滅させると述べた。暴力で民主的選挙を無効とし権力を奪い取った賊軍の長がよくもまあこんな大それた事を言えたものだ。  ミャンマー軍に民主派を皆殺しに出来る力があるかどうかは実際のところ怪しいが、かかる非道な発言を堂々とするとは控えめに言って狂っている。  しかし、このところ世界は巨大な問題が連続でおきており残念なことにミャンマーへの注目度は今ひとつだ。国際的な支援の規模は事態の深刻さと比して少ない。また、ミャンマーの事情は極めて複雑で支援先の選定も難しい。中には軍事政権を支援する団体もあるので注意が必要だ。もし募金をするならば国際的に名の通った組織を選ぶのが無難だろう。  ともあれ、ミャンマーの軍事政権が一日も早く崩壊して民主制にもどり、各民族間の諸問題も平和裏に解決するように祈る。

コツコツした努力の積み重ねも一瞬で失われる。

 親より先に死んだ子供がその滅罪のため三途の川の河野で延々と石を積まされる 賽の河原 の伝説では、ようやく積み上がりそうになった石の塔はあっという間に鬼に打ち壊されてしまいます。また最初からやり直しです。  私が若かった頃と比べて日本はだいぶん住みやすい良い国になりました。国民一人一人の地道な努力の成果です。とは言え、現代は現代で問題があります。格差は拡大し貧困層も増え、教育水準も低下し、過激なレイシストや陰謀論者が暴れています。しかし、それを問題視し活動する人々も多く、昔と同様に諸問題は改善されていくものと信じます。こう言うと、今の方が酷いとの意見を受けることもありますが、若い方々は昔の酷さをご存じない。  昔は飲酒運転や危険運転でバンバン人が死んでいました。ヤクザが幅を利かせ買収に応じない家屋にはついうっかりダンプカーが突入する事故がなぜか多発していました。殺人などの凶悪犯罪も今より圧倒的に多かったです。今の時代に問題視されている児童の虐待死だって、表に出てなかっただけです。体罰やネグレクトをしつけと呼んで憚らない時代でした。タバコのポイ捨て・不始末による火災や、歩きタバコのせいで火傷を負う人も多かったです。おじさん方は所構わずタバコを吸うばかりではなく公の場でも痰を吐き散らかし小便を垂れ流していました。女性が強姦されればイタズラをされたと言われほとんどの例で罪にもならず、痴漢は挨拶のような物でした。極左テロは吹き荒れ、大学や企業で爆弾が炸裂する。中学高校でも不良が武装し暴虐のかぎりを尽くす。治安を維持するための警察も左翼政党の圧力により手足を縛られた状態でした。そんな地獄のような時代がほんの数十年前の日本にはあったのです。  それが今や、飲酒運転は激減し、危険運転も厳しく取り締まられるようになりました。ヤクザは暴対法で壊滅寸前です。殺人事件も激減しています。児童虐待も見かけは増えていますが実数は減っているでしょう。歩きタバコやポイ捨てもほぼ見なくなりました。昔の漫画で待ちぼうけの男性の足元に吸い殻の山が出来ている場面を見たことがあるかも知れません。あれは時間経過を示す手法ですが、昔はそれが問題視されていなかったのです。道端が小便くさいことも痰を踏むことも無くなりました。強姦や痴漢は今では犯人が社会的な死を迎えるほどの重罪となりました。そこらじゅうで爆弾が炸裂す...

戦死者とその遺族への侮辱

 あるウクライナ兵が、戦死したロシア兵の私物のスマートフォンを用いその家族にビデオ通話して相手を嘲笑う動画がネット上に流れている。この動画が本物なのか何らかの意図を持ったフェイクなのかは分からないが現代ならではの酷い話だ。もっとも昔であっても、もし兵士が家族と容易に通信出来る手段をもったまま戦争に行っていたら同様の事態は起きたのだとは思う。機密保持の観点から戦場にいる兵士が個人的な通信機器の携帯を許可されているとは考えにくいが、開戦初期でもロシア兵が母親とメッセージのやりとりをしていた話もあったので、ロシア軍の軍規は存外にいい加減なのかも知れない。  侵略軍の兵士が現地でどれだけ非人道的なことをしたとしても、戦死した兵士の家族に直接通信しバカにするという行為は常軌を逸している。この話が事実ならば当該ウクライナ兵士には適正な処罰を願いたい。  兵站の不備が指摘されているロシア軍内では空腹や寒さから略奪する兵士も増えている。またロシア軍の無差別攻撃で民間人の死傷者も増えている。そんな中では現地のロシア兵への怒りは沸騰していることだろう。これ以上の犠牲者を増やさないためにも、一日も早い侵略軍の撤退とロシアの民主化を願う。

戦争と日本仏教

 日蓮宗や浄土真宗が有名だが先の大戦で日本の仏教諸宗派はその教義や教学に変更を加えてまで戦争遂行に協力した。戦後はその反省に立ち日本仏教の伝統宗派は一貫して戦争反対の立場をとるようになった。今回のロシアによるウクライナ侵略においても、殆どの伝統宗派は戦争反対の意志を表明している。  だが、それでも少し気になる事がある。今回のロシアの侵略ほど責任の所在がはっきりしている事はそうそうない。それにも関わらず、いわゆるどっちもどっち論を用い、ロシアの侵略を容認するかのような発言をする仏教者も散見される。開戦前はさらに酷く、ロシアの軍事的恫喝をまるで正義の義挙であるかのように言う者までいた。  侵略に抵抗するのもまた戦争行為で良くないなどと言う仏教者は、石山合戦や護法一揆で戦った先人をどう思っているのだろうか?侵略や理不尽な暴力に晒された時に、弱者を守らずただ悪人の好き放題に虐殺と略奪をさせることのどこに善があると言えるのか?そんな無作為は単に侵略者を手助けしているだけではないのか?侵略者を防ぎ弱者を守る為に戦って死んだ兵士に、お前は戦争行為をした極悪人だなどと本気で言うつもりなのか?  もちろん個々人のレベルでは侵略軍の兵士にも防衛側の兵士にも善い人も悪い人もいるだろう。だが、それがどうした?善人も悪人も救うのが宗教だろうが、ならば救ってみせろ。どうして、今まさに侵略が行われている時に侵略軍を支援する?そりゃあ侵略側にだってどんな妄想だろうがこじつけだろうが何かしら大義名分というものはある。それを聞いて侵略された側に譲歩を迫るのは、中立ではなく侵略の支援だ。もしあなたの家に押し入った強盗殺人犯に次々と家族が殺されていく中、突然したり顔で現れたお坊さんが「この強盗にだって言い分はあります。貧乏だったのです。警察を呼んだり抵抗したりしないでお金を分けてあげてください」とあなたに言ったらどう思う?その程度の想像力すらないのか?嘆かわしい。  また、ロシア国民の中には経済制裁で死んでしまう人もいるから制裁するべきではないと言う意見もある。死ぬのはプーチンでは無く弱者だというものだ。確かに弱者から犠牲になるであろう。では経済制裁をせずにロシアが侵略を続ければより多くのウクライナ人が死ぬ事になるのは良いのか?という問いに彼らは何と答えるだろう。説得でと言うかも知れないが、外交交渉も説得...