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南泉斬猫

 南泉斬猫は難解な物が多い禅問答の中でも特に難しい公案です。この話の主である南泉普願禅師は、死後はどこに行くのかと聞かれた時に水牛になると返事をしたと伝わっています。死後もあえて涅槃に安住せず迷いの世界に戻って、しかも畜生として修行をつもうというのですから決して畜生の命を軽視していた訳ではないでしょう。しかし、南泉禅師は残酷にも猫を斬り殺したことがあります。その南泉斬猫は次のような話です。  ある日のこと、お寺のお坊さんが飼っていた猫が、他のお坊さんの椅子を引っ掻いてしまいました。それについてお坊さんたちが争っていたところに現れた南泉禅師はお坊さんたちに「君たちがこの猫について何か言うことができればこの猫は斬るまい、言うことが出来ぬのなら切り捨てる」と言いました。お坊さんたちは何も言えなかったので猫は南泉禅師に首を切り落とされてしまいました。その後に南泉禅師の一番弟子が帰ってきて、禅師がこの話をすると、そのお弟子さんは履いていた靴を頭に載せて部屋から出ていってしまいました。それを見た禅師は「あの時、お前がいたら猫を救ってあげられたのに」と言ったと伝わっています。  これが南泉斬猫の話です。通常の感性では全くもって意味不明で、そもそも猫が可哀想です。仏教が禁じる殺生をしてまで禅師は一体なにを伝えたかったのでしょうか?まあ公案なので人それぞれに答えがあっていいのですが、南泉禅師の問いに素早く答える者がいれば猫は死なずにすんだのかも知れません。一番弟子が話を聞くなり意味不明の行動を起こしたのもとにかく何かをしたのが評価されたともみえます。もし、素早く決断し筋力に訴えることの多い臨済や黄檗がその場にいたならば、南泉を張り倒していたのではないかと思います。  世の中は時代が変わっても少しの油断が取り返しのつかない結果を招く事が多々あります。全てのものは移ろい行き、同じ状態をたもつものなどありません。南泉斬猫の話は理解出来なくても、自分の身の回りにある人や物が決して常在不変のものではないと教えてくれているような気がします。今の瞬間を大事にして生きていきたいものです。合掌。

石は玉をふくむ故に砕かれ

 玉(ぎょく)は宝石の翡翠のことで、漢土では古来から白い軟玉が珍重された。産地としては東トルキスタンのホータンが有名で特に和田玉と言われている。日本でも翡翠は取れていたが、その採掘や加工は奈良時代以降衰退しており、日本の古い文献で玉の話が出てくれば基本的には漢土の宝石である玉のことだ。  さて、そんな玉だが、鎌倉時代に日蓮聖人が信徒に宛てた手紙の一文に「石は玉をふくむ故に砕かれ」とある。自分らが正しいから苦難にあうのだという意味で使われている。なんとも前向きな考え方だ。  しかし、高僧でもない一般人が周囲からの反対や抗議にあった場合、自分に瑕疵がなかったか見直してみるのも大切なことだ。もちろん、間違いなく正しいことをしているのならば、理不尽な弾圧に屈するべきではないのだが、圧倒的多数から批判を浴びる場合は何か間違いが無いかよくよく検討した方がいいだろう。  陰謀論者が叩かれるのは彼らが正しいからではなく、社会に対する脅威だからだ。

目つき

 だいぶん昔の話だが、とある病気で当科外来に通院していた患者様に別の病気を見つけ、その病気を扱う他科に紹介したのだが、治療の甲斐なくお亡くなりになった事があった。ちなにみ当科で診ていた病気と新たに見つかった病気との間には何の関係もない。そんな事があったある日、ご遺族が話があると言って来院された。わざわざ挨拶に来たのかと思って面談したところ、患者様が死んだのは当科疾患のせいであり医療ミスだと言って詰め寄られた。その件に関しては無関係であるとの説明をしてどうにか納得してもらえたのだが、そうすると次は小生の目つきが悪いとか態度が悪いとか言ってすごい勢いでお怒りになっていた。こればかりは主観の問題なので先方がそのように感じたのであれば如何ともし難い。もちろん当方はそのような目つきや態度で接したつもりは無いのだが、上司が小生の目つきや態度が悪くて申し訳ないと謝罪することでどうにか決着した。  当時、上司が謝罪したことに小生はいたく不満だった。その場を取り繕うために小生を犠牲にしたのだと思ったのだが、当時の上司がいうには実際に小生の目つきは悪かったとのことだ。当時の小生は変な患者家族に言いがかりをつけられたと感じており内心なんだこの野郎と思っていたので目つきに出ていたのだろう。以来、なるべく目つきは良くしようと心がけている。しかし、意図的に表情を作ると「なんだニヤニヤしやがって」などと苦情を受けることもありなかなかに難しいものだ。  仏教でいう和顔愛語も身と口の動きだけでなく意が込もっていないといけないのだろう。  

犯罪と銃規制

 日本では銃器の所持が難しい。過去、銃犯罪が起きるたびに銃所持はどんどん困難になっていった。銃がある限りそれを使った犯罪がゼロになることはあり得ず、今後もこの傾向は続くだろう。日本から銃犯罪を撲滅するという意味では良いことだが、一方で厳しすぎる銃規制によりハンターの数が激減し、鹿や猪などによる農作物への獣害は増加傾向にある。  もし民間の銃所持を規制し続けるのならば、害獣の駆除は公的機関の責任において実施する義務を課すべきだ。いっそ、自衛隊、警察、海保以外に銃器の使用を認めなくするのも一つの手ではないかと思う。こうした考えを危険視する人もいるが、警官や自衛隊員による銃犯罪も稀にありはするものの、彼らの持つ銃器の総数と比して発生頻度は極端に低い。国防や治安維持の観点からも公的機関からの銃の全廃は現実的ではない。  しかし、過去に自衛隊が害獣駆除に協力した事例ではあまり成果は上がっていないという事実もある。以前、害獣のいる島に自衛隊が射撃訓練をすることで害獣を追い払うという民間への協力を行っていたこともあったが、あくまでも標的は島であり、害獣を狙って撃っていたわけではなかった。また、害獣の偵察や運搬で自衛隊が協力したこともあったが、害獣に直接的に火力を用いてはいない。警察に至っては猟友会に射撃させておいて、違反として取り締まるなどの意味不明の行為すらしている。  基本的に公的機関は責任を取りたがらないので仕方がないと言えば仕方がないのだが、その責任を丸投げできる民間の銃所持者が公的な規制の強化により減っている以上、公的機関が主体となって害獣対策を担当してもらわねば困る。  悲惨な銃犯罪を防ぐために銃規制を強化するのは正しいことだ。だが、それにより起こる弊害に対して国が無策であるのは問題だと思う。

菩薩のお約束

  菩薩が菩薩となる時に守ることを誓う決まり事に三聚浄戒というものがある。内容を簡単にいうと、悪いことをするな、善い事をしろ、人々を救え、の三つだ。大乗仏教では在家でも出家でも菩薩たるべしというコンセンサスがあるので、日本仏教自体にこの前提があると言っても過言ではない。  さて、三聚浄戒の悪い事をするなとは戒を守ることを意味している。宗派や在家か出家かの立場によりどの戒を用いるのかには差があるが、一般の在家信者なら殺さず、盗まず、嘘をつかず、不倫をせず、お酒を飲まないが最小の要求となる。  善い事をするとは行動と言葉と考えを正しくすることだ。例えば大乗仏教の修行である六波羅蜜を収めることもそれに当たる。六波羅蜜は、貪りの心を捨てて他者に施し、悪い事をせず、逆境にあっても怒ったりせず、努力を続け、座禅する時のように心を集中させ、これらを総合して知恵を得ることだ。この中には悪い事をしないと項目も、人を助ける項目も含まれているので、六波羅蜜の修行に励むことで三聚浄戒は守られる。六波羅蜜だけではなくあらゆる仏法の実践は善い事をしているということになる。善いということが単に悪い事をしないだけなら、極論すれば何もしないことで達成できる。三聚浄戒の一つとして敢えて善い事をするという項目を入れたのは、菩薩が人としての生活を送る上で行動や言葉遣いや冷静な考え方が大事である事を強調した結果であり、つまりは菩薩が修行者として何もせずに己のためだけに引きこもる事をよしとしていないことになる。  人を救うのはどうか?無知で能力が無ければ人を救えない。だから悪を断ち善を行い知恵を養う必要がある。しかしどんなに努力しても人間が完全な知恵を持つことは無い。だから知恵が完全になるまで何もしない場合は誰も救えないことになってしまう。落とし穴に落ちそうになっている人がいたら、余計なことは考えずに助けるべきだ。人間は基本的に楽な事を望む、人助けせずに労力を使わずに済むのならと色々と言い訳を作る。自分の知恵は不完全だから人を助けられないとか、救う相手は悪人だから助けない方が世の為だとか、そんな事を言って困っている人を見捨ててしまいがちだ。もちろん、全てを救うのは無理であり能力に不相応な事をすればかえって他人の迷惑になることはある。だから出来る範囲で出来ることをすれば良いのだ。間違ってたらその都度ただ...

イデオロギーが生む偏見

 福島の原発事故の時も、今回のコロナ禍でも概ね右翼はそのリスクを過小評価する傾向がある。原発事故が話題になっていた頃は大量に被曝してもかえって健康になると言った元航空自衛隊幕僚長もいたし、今回のコロナ禍が始まったごく初期にYoutubeで激怒しながらコロナはもう終わったんだいつまで対策なんてするんだ!と狂ったように喚き散らす右翼の言論人もいた。右翼は概ね何のリスクでも過小評価する。これはある種のマッチョ主義というか、自分達は強くて人々が騒ぐ脅威なんて恐るるに足らずと見せたい心があるのかも知れない。また、彼らはリスクの過小評価を、世間や政敵がリスクを過大評価しているとして攻撃するためにも利用している。その敵に対する怒りがますます過小評価に拍車をかける構造がある。  一方の左翼はどうか?彼らは基本的に原発が嫌いなので原発事故の時はそのリスクを過大評価しまくりだった。先入観がリスクコミニュケーションを無力化していた。会話が通じないというか、中には当時の左派政権を擁護するために、東日本大震災自体がアメリカの秘密兵器による物だという荒唐無稽な話を信じ込んでいる人までいて全くお話にならないレベルだった。しかし、今回のコロナ禍ではそのリスクを過大評価する人もいれば過小評価する人もいる。そして過大評価する人は政府の対応が手ぬるいと批判し、過小評価する人は政府の対応が大袈裟だと批判する。彼らが大嫌いな自民党政権を批判するためにはリスクの評価は極端であればあるほど都合がいいので勢いそういう認知の歪みを生みやすいのだろう。  その辺、中道勢力は概ね冷静だと言える。イデオロギー的な立ち位置が偏っているとどうしても誰かを攻撃し怒りを向ける傾向が生まれる。それは本来は冷静に判断すべき脅威をも政争の道具に使ってしまうという結果を招く。脅威に対する科学的知見や公共の利益の前に、より極端な解釈をして相手を困らせることが第一になっている。困ったものだ。

 仏教の基本である四諦の一つである集諦は、この世の苦が煩悩を原因にして起きる事を示している。この場合の「集」は原因とかそういう感じの意味だ。原因や条件により結果が生まれ、それぞれの結果はまた他の原因や条件となる。世の中は因果や因縁の複雑な関係を織りなされて出来ている。  戒を守り悪いことをせず身を修め生活すると善い原因を作っていくこととなる。それが直接自分に対して良い結果を生まなくても、広く衆生の幸せを喜べる心を持てば良い結果となったと言えるだろう。そもそも、仏教的には原因が結果を生むのは必ずしも生きているうちに起きるとは考えられていない。自分の行為が原因となった事象のつらなりは自分の死後も残りどこかで何かの結果を生むのだろう。いわゆる業の継承による転生観が、一般的な人が思う転生と同じと言えるのか甚だ疑問ではあるが、視点を広げれば些末な差だ。  殺したり奪ったりするのは言うまでもなく悪いことだ。信じた人の命を危険に晒す誤情報を喧伝し他人を騙してお金を奪うのはもう最悪だ、最悪の原因は最悪の結果を生むだろう。