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ゾーニング

 特定の場所に特定の目的やルールを定めるゾーニングは、主に行政上の問題だ。例えば、大規模な工場の隙間に住宅地があるような構造は危険で非効率だし、学校の近所に性風俗店が出店すれば教育上の問題もある。こうした問題を棲み分けで避けるのがゾーニングの主たる理念だ。  しかしながら、行政の注意が及ばないところにもこうした問題は発生しうる。先日、とある一般の商業施設においてイラストの展示会が開かれた。これ自体は問題は無いのだが、施設の会場外から見える形で展示されていた絵には、少女の乳首と局所が幅の狭いリボンで隠されているだけの扇情的な裸体像もあった。これを問題視した一般客の抗議の声を受けて、店側は外から展示物が見えないようにゾーニングを行った。  これで、この問題は解決するはずだったのだが、事態は複雑化している。展示物のようなイラストの愛好家らが、これらイラストは芸術でありゾーニングは表現の自由の弾圧などといって騒ぎ出したのだ。  展示イラストの内容は先述した物の他にも、貞操帯様の拘束衣をつけた少女が口でスカートの端を咥え股間をさらけ出すような絵すらもあった。このような展示物を問題視する人はいて当然で、会場の外部から見えないようにするのは妥当な処置だ。ゾーニングは混ぜたら衝突を起こすであろう人達を分離する知恵でもある。表現の自由とは別問題だ。  この問題を拡大解釈して言論や思想弾圧の嚆矢だという輩もいるが、見当違いも甚だしい。ゾーニングは逆に多様性を担保するものだ。ある意味で街全体がゾーニングの内側にある秋葉原や日本橋などの一種の解放区での常識は、外側では通用しないのを自覚していないと今後も無用の衝突を招くだろう。

鬼束ちひろのキック

 未確認の情報だが、救急車を蹴って逮捕された歌手の鬼束ちひろ氏は、パチンコ屋で痙攣を起こして倒れた友人の為に救急車を呼んだところ、近くにいた男から「ギャンブル中毒者なんて助けるな」などの暴言を浴びたそうだ。その後、駆けつけた救急隊にその男の逮捕するように訴えたが断られたことに激昂し救急車を蹴ったという。  救急隊にしたらまさに踏んだり蹴ったりだ。鬼束氏も怒るべきではないと思うが、友人を助けるなと言われた鬼束氏の気持ちも理解は出来る。ギャンブル中毒患者を助けなくていいという意見は暴論であり、むしろギャンブル中毒者はしっかり治療してギャンブル依存症から脱却させるべきだ。  そもそもパチンコやパチスロなる違法賭博場が堂々と営業を続けるからギャンブル依存症が蔓延するのだ。それで財産や健康や命を失う人は後をたたない。この問題に関する行政の怠慢は異常であり、パチンコ関係の組織に警察の天下りがあることからも行政と犯罪組織が一体となって国民の健康を害し犯罪組織の利益としているのは明白だ。行政も違法賭博場の経営に目をつぶればある程度の税収は期待でき、天下りなどの利益供与によりこうした犯罪行為を野放しにしているのだ。  全くもって嘆かわしい、鬼束氏は極悪な行政組織に対してこそキックをすべきだったのだと思う。

明徳と仏性

 明徳とは儒教で説かれる人間がみな天から賦与されて持つとされる徳の事です。仏教でいうと仏性のようなものです。儒教の中で最も重要とされる四書五経の一つ「大学」の中に以下の文言があります。なお()内はだいたいの現代語訳です。 大学之道 在明明徳 (大学の道は明徳を明らかにすることにある) 在親民 在止於至善 (人々に慈愛を持てば善なる状態を保ち続けられる) 知止而后有定 定而后能静 (善の状態に留まるのを知っているから心が定まり、心が定まるから心静かになる) 静而后能安 安而后能慮 (心が静かであれば安らかであり、安らかだから思慮深くなる) 慮而后能得 (思慮深くあれば徳を得ることができる) 物有本末 事有終始 (物事には本末があり、始まりと終わりがある) 知所先後 則近道矣 (こうした順序を知ることが出来れば、大学の道は近い)  「大学」は元々は礼記の一部でしたが朱子学では重要視され独立して扱われることが多い書です。「大学」では、自身を修めているから家庭を整えることができ、家庭が整っているから国を治めることが可能であり、国を治めるレベルの上に明徳を天下に示し世を太平に出来るとする考えがあります。つまり、修身、斉家、治国、平天下の順に進んでいき、明徳を示しこの世を平和にすることが一つの到達点なので、為政者たちに重視されてきた歴史があります。戦前の道徳教育が修身と呼ばれているのもこれに由来します。戦後は道徳と名を変えますが、そもそも儒教では仁・義・道・徳を重視しており、修身が同じく儒教思想に由来する道徳と言う名の授業に変わったのは、名称を変えた人々が儒教的な価値観の継承を期待したのかも知れません。  さて、世の中を見渡せばとんでもない悪人が多く、儒教の説く明徳は本当に全人類に備わっているのかという疑問もあるでしょう。しかし、私は明徳は全人類に備わっていると考えます。儒教では家庭や社会の秩序を特に重視する傾向がありますので、社会性が善であり徳であると仮定するとわかりやすいです。人類はその社会性とそれによって生み出された組織の力で地球上の霊長としての地位を築いて来たのです。人類の進化の過程で、極端に社会性に乏しい発想をしやすい脳をつくる遺伝子は生存競争に敗れ淘汰されているとみて良いでしょう。つまり、突然変異や脳に何らかの障害がある人以外の全人類は社会性を持ちうる生物だと言えま...

仏法僧は仏教の基本

 仏と法と僧のいわゆる三宝への帰依は仏教徒になるための条件でもあります。日本仏教の祖である聖徳太子も十七条憲法の第二条に「篤敬三寶 三寶者仏法僧 (篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり)」とあるように、仏教が日本に伝来してからもこの基本は共通しています。仏教徒となるにはこの三宝への帰依に加えて、受戒(在家の場合は 五戒 の受持)が必要とされます。  しかし、仏教の基本中の基本である仏法僧にも時代や地域や宗派によりいささかの見解の差があります。  まず、仏とは一般的にはお釈迦様のことです。しかし、大乗仏教ではさまざまな仏様がおり、浄土教系の宗派で仏様と言えば通常は阿弥陀如来が意識されますし、他宗派の寺院でも多くは特定のご本尊がいらっしゃいます。また、如来蔵思想に基づけば我々一人一人の中に仏はあります。禅宗系の宗派では生死の中に仏や涅槃を見出しますので仏が示す範囲は限りなく広く、法華宗系の諸宗派でもお釈迦様はインドで法を説かれた存在だけではなく世界に常住の仏と考えられており、密教系でも究極の仏である大日如来は世界と同義であり、一言に仏と言っても人によって印象は異なるわけです。ただ、仏は真理を体現した存在である事には変わりありません。  法は、こうした仏が説いた教えですが、これも宗派ごとに重視する経典やその解釈に相違があります。ただ、どんな宗派でも煩悩を原因として苦が生まれ、煩悩を滅すれば苦もなくなるという縁起の考え方は共通しています。これから派生して、物事は全てうつろい行き、その中に確固たる自己という存在は無く、煩悩と苦に満ちた状態を滅した悟りの状態は安穏であるとする考えがあり、この三つが仏教の最小要件とされています。宗派による法の解釈の相違は共通する悟りという目標に向けた方法論の差とも言えます。  僧は通常は出家したお坊さんのことですが、在家でも同じ教えを戴く同朋に対してお互い敬意を持つという意味でも使われることがあります。いずれにしても仏と法を守り伝える僧という存在は貴重です。  さて、この仏法僧をそれぞれ独立した存在ではなく同一と捉える考え方もあり、同一三宝や一体三宝とも呼ばれます。大乗の涅槃経にも「慈即佛性佛性即法 法即是僧僧是即慈 慈即如来 (慈は仏性であり仏性は法であり、法は僧であり僧は慈であり、慈は如来である)」という文言があり、人にも仏性があるという思想で...

改めて五戒を思う

 あまりにも当たり前の事である人を殺してはいけないとか、物を盗んではいけないなどと言うことを、日々自分に言い聞かせる人は少ない。だが、こうしたことは毎日思うべきだ。  直接的な殺人行為でなくても、例えば危険運転や業務上の不安全行動など、結果として人の死に結びつくかも知れない行為は、人を殺してはいけないと常々念じていれば行いにくくなる。他にも、例えば立場の弱い人間に対して何かしらの行動を強要することも時間や費用を盗んでいるに等しく、物を盗んではいけないと常々念じていればこうした行為は行いにくくなる。  在家の仏教徒が守るべき五戒は、殺さず、盗まず、嘘をつかず、邪な性行為をせず、お酒を飲まない、の五つだ(不殺生・不偸盗・不妄語・不邪淫・不飲酒)。完全に守れるかどうかは別として、日々これらの戒を思うと積極的には悪いことが出来なくなる。  嘘をつかないことも常々念じていれば、嘘に嘘を重ねて大きな問題になる前にその成長を断つ事ができる。邪な性行為をしないのも常々念じておけば、魔がさして浮気や性犯罪を行い家庭や人生を棒にふることもなくなる。お酒を飲まないということも常々念じておけば、仮に飲んでも気が引けるので大量は飲みにくくなる。  こうした戒は常々念ずることが重要だ。そうでないと人は、ちょっとくらいは良いかと易きに流れる。それこそ、ついカッとして人を殺すことなどあってはならない。また、自分の心と行いを制するのは仏道修行の基本であり、煩悩の赴くままに人生を無駄に浪費させない為にも、改めて五戒を守る努力をしたいものだ。

オリンピックの外交的ボイコット

 来年2月には北京で冬季五輪が行われる予定だ。民族浄化や思想弾圧や女性差別などを行う中国が平和の祭典である五輪を開催するにふさわしい国なのかは甚だ疑問だ。  思い起こせば13年前、チベット人らが虐殺されたにも関わらず夏季の北京五輪は普通に開催された。経済的な損失を被ってまでチベット人やウイグル人の人命を守ろうとする五輪関係者はいない。  ただ、今回は米英などが政府関係者を北京五輪に参加させない外交的ボイコットを検討中ではある。この場合、外交的ボイコットをした国からも選手団は派遣され競技に参加する。近代オリンピックは単なる世界的な大運動会ではなく平和の祭典と定義されているから、ホスト国政府による人権蹂躙に対して何らかのアクションを起こすのは納得出来る話だ。  しかし、高度に興行化してしまった近代オリンピックにはもはや当初の理念は残っていない。オリンピックが平和の祭典である事自体を知らずに観戦している人も珍しくはない。ここではっきりと平和の大切さを訴えられないようなら近代オリンピックそのものを廃止すべきだろう。  また、日本は、岸田政権はこのまま中国共産党の暴虐を是認し続けるのか?多くの国民は注目している。

ロボット盲導犬

 まだ不確かな話ではあるが、ロボット盲導犬なるものが開発中だそうだ。四足ロボット自体はすでにあるし、自動運転が可能になりそうな近年の科学技術をもってすれば不可能では無いだろう。本当にロボット盲導犬が完成するならば実に喜ばしいことだ。上手く行っても実際に世に出るのは何年も後だろうが、開発企業には頑張ってもらいたい。  現在の日本でも盲導犬を必要とする人に対しての盲導犬の供給は10%ほどだという。しかも、訓練や育成に高額な費用がかかる盲導犬に関しては、その貸与先の選定などに黒い噂もたびたび聞く。利用者から虐待を受ける盲導犬も多い。  幼犬の頃から厳しいトレーニングを受けた盲導犬が良識ある利用者に貸与されればまだいいが、そうでなければ利用者からは虐待を受けつつ老化して道具として使いものにならなくなるまで酷使される。そんな盲導犬の一生はなんとも不憫だ。  ロボット盲導犬が普及し、一日も早く動物の盲導犬がその歴史的役割を終えるように切に願う。