投稿

当位即妙

 機転が利いている事に対して使われる当意即妙という言葉は、日蓮遺文に書かれた当位即妙が元となったと言われます。発音が同じだけで意味は変わってしまっていますが、表記も本来は意でなく位だったので、昔の人のシャレ心だったのかも知れません。本日は当位即妙の方の話です。  当位即妙は、法華経の方便品第二にある「是法住法位 世間相常住」(法華経は真如であり、この世界もまた常に法とともにあります)を受けて日蓮遺文に「法華経の心は、当位即妙不改本位と申して、罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」と書かれているのが由来となっています。要は、罪業を持った凡夫も仏であり、そのまま仏道を成就しうると説いているのです。当位即妙の発想は悩める人達をすぐに救う当意即妙な答えですね。    

選挙に行こう

 選挙に行きましょう。明日は衆議院総選挙と最高裁裁判官国民審査の日です。小生の住む選挙区も控えめに言って政治家としての資質に欠けるとしか言いようのない候補者しか出ていませんが、その内の誰かを選ぶしか無いです。どうしても選べなければ白票でもいいので行くべきです。投票率が上昇すれば、各政党の組織票を支える人達以外の国民の声も政治家は無視しづらくなります。裁判官審査は事実上罷免は不可能という著しい制度上の欠陥がありますが、投票に行く前に広報をチェックしておきましょう。罷免されなくてもX印が多ければ、おかしな意見を出した裁判官も多少は反省するかもしれません。  そもそも、組織票を投じる予定の人はほぼ全員投票に行くでしょうから、選挙に行こうと呼びかける対象は、選挙に行かなさそうな人達です。あなたの投票した人が選挙でも負けても票数は民意の現れであり、その数が多ければ多いほど勝者もそれを無視できなくなります。また、先述のように投票率の向上は一部のコアな支持者以外にも利益をもたらします。選挙に行かない無関心層が増えれば増えるほど、少数の組織票で日本の行末は決定されてしまいます。  組織票と言っても多種多様で、各党の党員・党友、労働組合、宗教団体、職種別の利権団体などがあります。それぞれかなり意見も違うので少数の組織票が世の中を決することは無いとの意見もあるでしょうが、自由な個々人を説得して回るよりは容易に達成できます。また、組織票と言うと与党となりうる大政党にばかり目が行きますが、非現実的でバカみたいなことしか言わない泡沫政党が長く存続出来るのは少数でも狂信的な組織票が存在するからです。国会議員は強い権限を持っています。少数でも狂信的な団体が議員を操っているのは国にとって有害です。投票率が上がれば、そうした危険人物を国会から退場させる事も可能です。  選挙に行きましょう。

右翼による皇族バッシングの特徴

 皇族バッシングと言うと左翼の専売特許かのように思われがちだがそうでもない。不敬罪があった戦中・戦前においてもハト派の昭和天皇に対するタカ派からの批判はあった程だ。  ただ、もちろん日頃の皇室、皇族への攻撃は左翼が中心だ。左翼の多くは天皇家そのものの廃絶を画策しており、皇族方を模した人形を死刑にしたり、ポルノ画像と合成するなどの脅迫・名誉毀損などを繰り返し、直接命を狙ったり危害を加えようとした事件もあった。日本国憲法を無視して天皇家を廃しようとする勢力の多くが護憲を叫ぶのはなんともおかしな話だ。日本国憲法では天皇は日本の象徴であり、伊勢系の神道の理念からしても天皇と日本は同一とみなせる。左翼こそが改憲を訴えるべきではないだろうか?  一方で、皇室を擁護する立場にあると思われがちな右翼も戦中の天皇批判の一部にもあるように皇族をバッシングすることがある。近年に至っては皇族バッシングの勢力としての右翼は左翼をうわまらんばかりの勢いだ。右翼の皇室バッシングにはある種の特徴がある。それは平民の血を引く女性皇族が主な攻撃対象であり、その中で最も目立ち立場の弱い女性が叩かれる。だから、一時は苛烈な勢いで叩かれた女性皇族がその後、同じ人達によって崇め奉られたり、一度は礼賛しておいてから特に証拠もなく徹底的に叩くなどの怪現象まで起きる。要は理念も筋も無い弱いものイジメだ。しかも、攻撃対象が変わっても途切れなく叩かれ続けられる特徴もある。過去を振り返ってみよう。  まずは戦争の記憶も鮮明だった1958年、現上皇陛下が皇太子時代に正田美智子さんとの婚約が発表されるや、平民が将来の皇后になるのかとして、主に右翼勢力による常軌を逸したバッシングが行われた。また平民が気に入らない右翼勢力だけでなく、左翼勢力からも美智子様がブルジョアの出であることが攻撃の材料とされたが、驚くべきことに右翼勢力もこれに乗っかり母方の祖父の会社が起こした公害と美智子様を無理やり関連付けて叩く者までいた。こうして今では国母とまで仰がれる美智子様も上皇陛下との成婚後30年以上に渡り、罵詈雑言と誹謗中傷を浴びせかけられ続け心労から声が出なくなることまであった。そんな中でも美智子様は公務をこなされていき、徐々に国民の支持を得ていった。また、1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などでは、陛下とともに被災地を見...

百万塔

イメージ
 百万塔は、藤原仲麻呂の乱の後に、称徳天皇の発願により鎮護国家と滅罪の為に造られた百万基の小塔で、その中には無垢浄光第陀羅尼経の陀羅尼が銅版によって印刷され収められています。この陀羅尼の大半は西暦767〜769年にかけて印刷されており現存する制作年が明らかな世界最古の印刷物としても有名です。  称徳天皇と言えば、愛人の僧侶である道鏡に帝位を明け渡そうした愚行で知られますが、この無駄に多い百万塔の制作もむべなるかなというところです。  百万塔は、21cm強の三重の小塔十万基に十基の七重塔と一基の十三重塔がつけられた状態を一組として、十の大寺院に十万基づつ収められました。各寺院は小塔を収める泰安殿を作り小塔院や万塔院と呼ばれましたが、時代を経るごとに焼失などしていき現存するものは法隆寺由来の四万六千基ほどと言われます。現在でも法隆寺の大宝蔵院の順路の最後の方で百万塔の一部を見ることが出来ます。また奈良にある真言律宗の小塔院は元興寺の小塔院跡です。  過去には小塔が民間に譲渡される事もあり、その圧倒的な数からか勅願の品なのに割とぞんざいな扱いを受けています。勅願の品とは言っても奈良の大仏や各地の国分寺と比べるとインパクトにも実用性にも欠いており、有り体に言って数が多すぎなのでそんなものでしょう。とはいえ百万塔は約1300年の時を経て今に伝わる貴重な文化財ではあります。時々ネットでも売ってますが真贋定かでなく手を出さない方が無難でしょう。  

コラボラトゥールを狩る気持ち

 第二次世界大戦末期、連合国によりフランスが解放されるとナチス・ドイツ占領下のフランスでドイツ側に協力した人たち「コラボラトゥール」に対する暴行や殺害などのリンチが横行した。ドイツ人の愛人だったとされる女性が丸坊主に髪を刈られ晒し者にされている有名な写真を見たことがある人も多いだろう。しかし、ドイツの占領下のフランスで全くナチスに協力しなかったフランス人が如何ほどいたのかは甚だ疑問だ。フランスのワイン業界もナチスから利益を得ておきながら、あたかも抵抗したような伝説を吹聴するなど自分らの身を守るのに必死だった。  どんな悪逆な政権に支配されようとも、そこの住民の生活や経済活動が終わる訳ではないのだから、何かしら政権との経済的な交流が発生するのはやむを得ない話だ。コラボラトゥールを狩るフランス市民の多くも幾ばくかコラボラトゥールであったに違いない。だが、より確実にコラボラトゥールである人間を叩いておかないと自分の身も危うい状況だ。叩く側にいる時は少なくとも安全だから、暴力は加速していく。  もちろん、祖国フランスを奪い、自分たちの命を危険にさらし、民族の誇りを傷つけたナチスに対して報復したいと思うのは、善し悪しは別として自然な感情ではある。積極的にナチスに協力しレジスタンスの殺害に加担した者などは、ナチスが敗れた以上は処罰を免れ得ないだろう。だが、それは裁判によるべきであり、間違いなくクロであっても、私刑により処断されてはいけない。  なぜ、今コラボラトゥールの話をしているのかと言うと新型コロナウイルス感染症に関する陰謀論の事だ。コロナの流行は、まだ終息したとは言えないが、ワクチンや治療薬の開発もあり、いずれはコントロール可能になる目処も立ってきた。少なからぬ犠牲が出たが人類の勝ちはもはや確実と言って良いだろう。この終戦後、ウイルスやワクチンに関する非科学的なデマを吹聴した人達は恐らく大衆の私刑の標的となる。騙されて死んた患者の遺族らの気持ちを考えると、私刑を容認したくもなるが、やはり言論による抗議に留めるべきだろう。  また、今後も同じことが無いように法的な整備も必要だ。例えば町中で毒ガスを噴霧すればテロであり殺人であり刑事罰の対象だが、一定の割合で信じる人が発生する致死的なミームをネットや言論空間にばらまいても刑事罰の対象にはならない。言論の自由は大切だが、民族憎悪...

兎角

 実在しないウサギの角についてあれこれ議論しても無益であるように、誤った分別や執着は無駄です。  実在しない陰謀や悪の秘密結社についていくら考え対策をしても、実社会においては無意味なだけでなく有害です。コロナやワクチンの陰謀論で、ワクチンを推進する医者を脅迫する人達がいたのを見れば納得できるでしょう。  ただし、いろんな非実在を想像してみるのは楽しいものです。そうした妄想が小説となって世に流通すれば、娯楽産業となります。それで気分が良くなる人もいれば儲ける人もいるし、ハマりすぎて他に必要だった時間を浪費する人もいるでしょうし、そこから深い考えを得る人もいるでしょう。  また、学術的な問題でも未知の領域に対して仮説をたてるには想像力が必要とされ、実在が確認されていないけど実在するかも知れないモノを仮定しその性質を推測しそれを確認するための手段を考え実験するのは大切な能力です。  実在しないものに執着するのは無駄ですが、無根拠な盲信さえなければ発想の自由さはあった方が良いでしょう。

ご先祖様と三十三回忌

 正月に各家庭を訪れる歳神様は、故人の霊が長いこと祀られてご先祖様と一体となった神であるとの説がある。  日本の仏教で年忌が概ね三十三回忌で終わるのは、こうした仏教伝来以前からの祖霊が一定期間祀られると神になるという思想との習合だといえる。  神道では傑出した人物を神として祀る事はあるが、大半の一般人は個別に神として祀られることはなく、祖霊の一つとして祀られ長い時間が経過すると、その家のご先祖様に統合され神として扱われることになる。  故人が長く祀られると、お参りする側で故人と直接の面識がある人は徐々に減っていく。三十二年はまだ故人を覚えている人がいるうちに祀り上げるという意味では理にかなっている期間と言えるだろう。  ちなみに、仏教が残っていた頃のインドでは一部の宗派で七日ごと七回、四十九日までの追善供養を行っていた。これが漢土に渡ると十人の王様が死者を裁くという現地の思想と習合しインドの七回に加え百箇日と翌年の一周忌さらに二年目の三回忌が加わり合計して十回の仏事が行われるようになった。日本ではさらに七回忌と十三回忌と三十三回忌が足され合計十三回の仏事が営まれるようになり、各仏事を担当する十三の仏への信仰も成立している。  こうした習合はあるが、日本古来の神としてのご先祖様は成仏してどこか遠いところに行くことはなく、ご近所にとどまっているのが普通だ。ただ、日本の仏教宗派でも浄土真宗は成仏した故人はこの世に戻ってきて人々を念仏の道に導くとされており、祖先が自分たちを見守っているとの考えは受け継がれているよう思える。  こうした、先祖にあたる神仏を拝むのは圧倒的に強い親からの恵みを期待するという面もあるだろうが、自身が死んだ後に残る家族が心配で、彼らを守る神仏でありたいと願う人の気持の表れでもあるだろう。