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下載清風

 下載清風は有名な公案集の碧巌録の中に出てくる言葉です。全ての存在や理は一つに帰するがその一つはどこに帰するのかと修行者から訊かれた趙州禅師が、青州にいた時に七斤(約4.2kg)もある重い上着を作った事があると返答します。いかにも禅問答らしい一見すると意味不明の対話ですが、その解説として、かつて畳み掛けるように質問を受けた趙州だがその上着の重さの意味を知る人は何人いただろう、今やそんな物は西湖に捨ててしまった、荷物を下ろしてしまった後の清々しい風を誰に伝えよう、という歌が加えられています。  また、禅宗の歴史書である五灯会元にも宋代の禅僧の五祖法演の話として次のようなものがあります。五祖法演の師である白雲が道場にいる既に悟った修行者のことを未在(ダメだ)と評します。その理由が分からなかった五祖法演がある日突然、自分の得た悟りにこだわるのを捨てて師と面談したところ、白雲はたいそう喜んだそうです。後に五祖法演はこの時の状態を評して下載清風と言っています。なおこの五祖法演は 法演の四戒 の回にお話したあの法演です。  下載清風は荷物を下ろした身軽になった帆船が風を受け気持ちよく進む様を示しており、思い込みや執着をすてた正見の状態と言えるのかと思います。

浄土真宗の禅!?

 日本仏教の最大宗派である浄土真宗の教義としては自力の行としての禅は否定されています。真宗の教義では、称名念仏も自分が行っている訳ではなく阿弥陀如来の慈悲が届いた結果として自然に溢れるものだと解釈されており、代々それは大事に守られ御仏に感謝がささげられてきました。小生は以前から念仏には六波羅蜜の禅定の効果が期待できるのでは無いかとの説を提唱していましたが、これは他力の念仏を否定するものではなく、念仏により結果として心が落ち着くよねと言っているだけです。  一方で浄土真宗教団の最大宗派である本願寺派、いわゆる西本願寺では近年自力の行を許容するかの様な公式談話もしばしば見られ個人的に注目していました( 「私たちのちかい」闘争  参照)。本日お話しするのは何か新しい発表があったのでは無く、ふと海外の本願寺派のサイトを見ていた時にビックリするような記載があったので、その概要を説明します。  なんと!カナダの浄土真宗本願寺派には瞑想の修行が存在します!もうビックリ仰天です。いやまあ内輪で話し合って新境地を拓くこと自体は否定しませんが、教団の保守派は納得したのでしょうか?詳しい人がいたら御教示ください。以下に浄土真宗本願寺派カナダのサイトに載っていた文章について考察してみます。なお原文はこちらからどうぞ  https://www.bcc.ca/jodoshinshu/meditation.html  まず違和感を覚えたのは、本来は浄土真宗は称名念仏のみであるとしつつも、称名念仏も瞑想であるとされていた事です。念の為にその部分の原文を提示すると" Traditionally, Shin Buddhism has limited its meditation practices to sutra chanting and recitation of the “Nembutsu”; Namo Amida Butsu.   "となっています。これは念仏に瞑想の効果があるとしても、称名念仏が阿弥陀如来の慈悲の発露であり自力で唱えている訳ではないとする真宗の教義に反するかと思います。続いて通常の禅定の説明がありこれ自体は概ね正しいのかと思いますが、瞑想により己の仏性に目覚めるのは明らかに自力の行だと言えます。そういう目的を持って瞑想した時点で阿弥陀様におまかせしていませ...

陰謀論者の説得は本来の目的ではない

 新型コロナウイルス感染症の猛威が続くなか、陰謀論者はあいも変わらずコロナはただの風邪だから経済を回すために元通りの生活にしろなどと訳の分からん事を吹聴して回っています。そして、そんな人に乗せられた多くの人が自粛しなくなっているかのように見えますが、陰謀論者にそんな力はありません。  いわゆる自粛をしない人たちの多くは陰謀論者の馬鹿げた理屈を信奉しているからではなく、そうしないと生活が立ち行かないから自粛しないだけです。苦しくても自粛をしている人たちの多くには、ちょっとした口実を与えるだけで自粛を終わらせる事が可能となります。後で問題が起きても責任は陰謀論を説いたおかしな人であり、自分は騙されただけだというロジックが成立するからです。  国民一人ひとりの善意による自粛には限界があります。自分の生活に直接的な危機が迫る時に、自粛を守る事は難しいですし「自粛」の強要も出来ないでしょう。  公益を考えれば行政は国民に厳重な行動制限をさせたり素早くワクチンを普及させたりするべきですが、行政がそのためにしたことと言えば国民の善意に依存した自粛のお願いと一部から「香典のつもりか」と揶揄される程度の微々たる公的資金援助程度です。しかも、まいどまいど中途半端なところで自粛のお願いすらやめてしまうという意味不明の行動を続けています。必要なのは十分な経済的保証と行動制限の命令です。自粛のお願いなどというものは結局の所は厚生行政の責任を国民に丸投げしているだけです。  ですが、諸外国では可能な国家の命令による国民の行動制限も日本国の特殊な法的事情を考えれば難しいかも知れません。結局、自粛をお願いするしか無いのならせめてお金をばらまくべきです。こう言うと債務残高の話をしてくる人がおりますが、いま死ぬかも知れない時に10年後に死ぬかも知れない事を心配するなど愚かな事です。平時ならいざ知らず、茹でガエルの如き危機感のなさだと言わざるを得ません。  こんな状況では陰謀論を吹聴する人はますます勢いづきます。これに対して陰謀論者に議論を挑む人は後を断ちませんが、まあ無駄でしょう。プロの陰謀論者は動画やブログの広告やそれから誘導する書籍や有料記事で生計を立てているのですから、いかなる説得を受けても不安な人たちの心に響くキャッチーなデマを振りまき続けるだけです。  この問題の最大の目的は感染のコントロー...

どうしようもないことは

 どうしようもないことは、どうしようもないので考えても無駄であり他の事をした方がいい。問題はどうしようもないという判断が正しいのか誤っているのかを人は容易に分からない方だ。一見どうしようもないけど何か工夫したらどうにかなるのではないかと思うから迷うのだ。はじめから絶対に無理だとわかっている事を人は試さない。宝くじを買う人はもしかしたら当たるかも知れないと思って買うのだ。可能性がゼロなものと限りなくゼロに近いものの間に日常生活レベルでは差は無いはずなのだが、そこに大きな差を見出してしまうのが人間の愚かさであり同時に美しさでもありまた恐ろしさでもある。  我が子を生き返らせようと誰も死者が出ていない家のケシの実を探し回ったゴータミーも、そんな物は存在しないと途中で気がついたから良かったものの、迷いが深ければ死ぬまで探し続けたかも知れない。  諦めずに切り開く道もあれば、諦めることで見つかる道もある。どちらが正しいのかは両方を同時に試せないので永遠に分からないけど、人生は短い、時間は大切に。

法華経と維摩経と勝鬘経

 日本仏教の祖というべき聖徳太子は救世観音菩薩の化身としても信仰をされており、没後1400年にあたる今月は多くの寺院で法要が営まれました。法華経と維摩経と勝鬘経はそんな聖徳太子が注釈をつけ重要視した経典です。この三経典には日本仏教の精神の核が内包されています。  まず、維摩経ですが、在家信者の維摩詰居士が主に文殊菩薩との議論を通じて教えを説く形となっています。言語的な対立的概念への執着を離れれば、在家の日常生活の中にも仏道修行の完成をみることが出来る事を示しており、在家主義を強調した作りとなっています。  勝鬘経は在家信者で王妃の勝鬘夫人が誓いを立て教えを説きお釈迦様が追認する形式であり、全ての人が仏となりうる事を説く如来蔵思想の経典です。  有名な法華経はお釈迦様の教説とされ、様々に見える仏の教えも一つであることと仏の永続性を説く経典です。  三つをまとめると在家を差別せず、女性を差別せず、方法論が違って見える考えも皆が仏になるという一つの目的に統合しており、聖徳太子の和を以て貴しとなすの思想と調和しています。  聖徳太子はこうした仏典を推古天皇にも講義されており政治にも影響を与え、また社会福祉にも尽力されました。皆が平等に助け合う日本的な精神というものは聖徳太子の導きによるものとも言えるでしょう。  こうした偉大な先人に感謝の誠をささげてまいりたいものです。

仏炎苞

 サトイモ科の植物の大きな苞の事を仏炎苞と言います。アンスリウムや水芭蕉の花で見られるアレです。色や形から炎の様に見えるものもありますが、宝珠形や舟形の光背のように見えるものなど様々です。またサトイモ科以外でも極楽鳥花の胴の部分も仏炎苞と言われる場合があります。  さて炎の光背というと不動明王が真っ先に思い浮かぶように明王の光背として有名ですが、明王以外でも馬頭観音や蔵王権現や迦楼羅王の光背などに炎があります。しかし、水芭蕉の花の仏炎苞は舟形光背の様に見え、どちらかと言うと如来の光背を想起させます。  通常は如来像の光背が火焔様であることは無いですが、阿弥陀如来の別名の一つには光炎王仏であり、その光は煩悩を焼く炎でもあるのです。なので仏炎苞という名称でもまあいいのかなと思います。  今年はコロナ禍での移動制限で水芭蕉を見に行くのも難しいでしょうが、仏の炎は皆に届くよう祈ります。

日本人と道

 日本人は道が好きだ。道路ではなく伝統的な心と技としての道だ。道の名前がつくだけでその技術は引き締まって見える。例えば剣道ではなく剣術と言うと、精神性が無いなにか薄っぺらい技術のように感じてしまう。剣道は精神性があるから剣道であって単なるスポーツではない。楠正位も「剣道は武士道を実行する為に修行するのだ。武士道を離れた技術だけなら虎狼の如きである。」と言っていた。相撲だってその精神性を強調する時は相撲道と呼称されることがあるし、柔道は柔術からの派生ではあるが道の名を冠した柔道の方が日本人には広まった。道の名は日本人の心を打つ何かがある。それゆえに日本には様々な道が作られ、ラーメン道とか野球道とかまであり、何かの技術を伝承するにあたり精神性を重視する場合に道の名がつけれる。茶道や香道も技術の習得だけでなく、お茶を点てたり香りを聞く作法にのせて先人の心や思想を継ぐことに重きが置かれている。どんなに良いお茶を点てても客をぞんざいに扱うような行為は茶道では無く、茶道が単にお茶を点てる伝統技術ではないのは明白だ。  仏教もその教えを実践する場合は仏道と言われる事が多い。仏教は宗教であるから精神性が重視されるのは当然と言えば当然なのだが、その教義をどんなに深く理解していても、盗みや殺人に明け暮れるような生活を送っている者は仏道に励んでいるとは言えない。学術的な理解だけでは道では無い、行為を伴ってこそ道となる。これは他の道でも同じで、精神性がバッチリでも美味しいラーメンが作れないとラーメン道としては意味が無い。技術や修行や実践がその精神に一致して不可分の状態でないと道にはならない。  仏教だって四無量心を取り除けば容易に虚無主義に堕する。技術のみの瞑想は仏道ではない。