投稿

キュアグレース

 今回は女児向けアニメの話で恐縮なのだが、話題になっている今期のプリキュアの展開に乗っかって一言。プリキュアとは2004年以来続いている女児向けの戦隊モノのようなアニメシリーズで、時代の流れか近年では多様性と相互理解を訴えかける作品が多かった。別にプリキュアシリーズだけではなく、昨今のアニメなどの子供向け文化はこの考え方が前提として作られている場合が多い。それ自体は悪くはないのだが、いま物語の終盤を迎えているヒーリングっどプリキュアの第42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」で主役のキュアグレースこと花寺のどかは、敵の幹部からの助けの求めを拒絶した。一般的なアニメのヒロインキャラは慈愛と自己犠牲の精神であらゆる者を救うのがステレオタイプとなっているが、嫌なものは嫌だとはっきり言える強い女性像を打ち出したことは良いことだ。ヒロインが自分を犠牲にして利用され捨てれるのを美談とするような物語の濫造は子供の頃から女性はそういうものだとの洗脳を施しかねない。さんざん悪さをしてきた男が都合のいい時だけ女性に負担を強いて利用しつくしたらまた悪さをする気が満々である時に、相手に向かってふざけるなと言えるヒロインの登場はなかなかに小気味いい。  私が流行り物に乗っかった時はその後に酷いオチが待っている事も多いので、そうならないように祈りつつ、今後とも子供達に夢と希望を与える作品が多く生まれるように祈る。

感謝の念

 人間は他の力なしには生きていけません。毎日いただく食事も他の動物や植物の命をいただいていますし、空気や大地がなければどうしようもありません。自分の力だけで何かをしているというのは思い上がりです。勤め人は会社を支える多くの人達により仕事が出来ています。一人で作業をしているように見える芸術家でも創作に使う道具を作る人や作品を買ってくれる人達とは無関係ではいられません。人は関係性の中に生存しており、その考えもまたお互いに影響を与えあっています。関係性の中にしかいない我という存在は確固たるものでは無く全ては移ろい行くという考えは仏教の基本ですが、その関係性は世界の全てにつながっており、世界に感謝を捧げることは自分への執着を取り除くためにも有効です。  だまされたと思って世界中の全てに感謝してみましょう。世界の事を思い浮かべると、どうしても許せない人や考えも多くみつかるかと思います。そんな物事を思い浮かべる時は、まず自分が存在しないとしてもそれらは許せないものなのか考えてみましょう。自分が存在しなければ許せるものならば、その許せないは自分への執着から生まれたものです。自分の存在の有無に関わらず許してはならない道義的に悪い物事ならば、その物事が善いものに変わるように祈りましょう。そして我が身を振り返れば道義的な悪は必ず自分の中にもあります。悪は悪として止めるとしても、考える機会となってくれた事には感謝しましょう。許さなくても感謝は出来ます。  止めるべき悪が理解できなければ善もまたありません。自分も含めて悪い人の幸せとは悪を成就することではなく、悪から解放されることです。世界への感謝は、全ての人が幸せであるようにと祈るきっかけにもなります。全ての人の中にはもちろん自分も含まれます。世界に自利利他の精神が広がりますように。南無三宝。

あるがままを受け入れる

 密教や如来蔵思想では、世界の全てに仏を見ます。全てがありのままで尊いのです。心穏やかに全てを受け入れて生きるのが良いとする言説はしばしば聞かれるものです。こうした見方では全てが平等であり、地べたを這う虫も大恩ある師も命の価値は差別なく同じく尊いとされます。もちろん、自分や仲間を殺戮するような犯罪者の命も尊いと言うことになりますし、弱いものをいじめて我欲を満たすような人の命も尊いのです。  さて、この文脈から世俗の決定を批判せずに従うのが宗教者としてあるべき姿だとの意見もあります。しかし、それは本当にありのままを受け入れている姿なのでしょうか?  ある日もし日本が独裁国となったとして、国家主席を賛美し信仰を放棄し国家に逆らう市民を殺すように世俗の権力から命令を受けた場合、唯々諾々とそれに従うのはありのままを受け入れる事にはなりません。  七仏通誡偈にあるように、悪いことをせずに善いことをして心を清めるのが仏の教えです。悪い命令には従わずに、その結果として刑罰を受けようが殺されようが自分の行為を納得して受け入れられるような状態が、ありのままで善いといえるのです。全てがそのままでよいというのを、悪に屈する脆弱さの言い訳にしてはいけません。もちろん、どんな悪人の命も尊くはありますが悪が尊い訳ではないのです。  人は文字ばかりにこだわるとこんな簡単なことも分からなくなるものです。思考実験ではない他との関わりの経験と常識は大切にすべきです。

人を生かす情報、殺す情報

1.人を生かす情報  世の中には人の役に立ち命を救う情報があります。天気予報の発達により、人は台風が来る何日も前から準備に取り掛かる事が出来るようになりました。大雪が来るのも事前に分かります。情報技術の発展で大雨時の河川水位も出かける事なく分かります。地震だって到達直前ですが警報が出ます。こうした人を生かす正しい情報は科学の進歩により支えられています。  ある時代に科学的に正しいと思われていた事が後に違うと分かる事もありますが、間違いを修正しつつ科学は進歩します。現代科学はこの歴史の積み重ねでもあり、基本的には昔の物より今の方が正しいのです。科学は感情や煩悩や思惑を廃した純粋な知が求められますが、基礎分野を離れ応用に行くほど人間の思惑に接近していき、最終的に科学から生み出された道具や情報を受け取る人間は、それをどう利用しようかということを考えます。  純粋な知は単なる事実です。良いも悪いも生かすも殺すもありません。それらは利用する側の心の問題です。天気予報だって、悪天候を利用した犯罪計画を立てることも可能ですし、高波の予報が出たからとわざわざ波乗りに行って遭難する人もいます。科学的知見は人を生かす方向に使いたいものです。また、科学の仮面をかぶったニセ情報には十分な警戒が必要です。 2.人を殺す情報  一方で嘘の情報は殆どの場合で有害です。天災が来るのに来ないという誤った情報が流布されれば、それを信じて準備を怠った人が死傷することもあるでしょう。信じたくない事実があったとしても、それから目を背けていては被害は広がるばかりです。  また、何か大きな社会問題がある時に、それを特定の人物や組織や民族の陰謀だとして過激な行動に出る人達も後を断ちません。なんの証拠も無いのにこの手の話を信じてしまう人が多いのを見るにつけ、人がいかに嫌なことから目を背けて自分たち以外の何かを悪者に仕立て上げたがっているのかがわかります。  この手の情報も言論の自由のうちだとの意見もありますが、まず無根拠に他人を悪人扱いしている時点で侮辱や名誉毀損ですし、それに基づいて暴力行為を煽動するような言説は明らかに犯罪であり認めてはなりません。それでもしつこく、万人に反論の機会があるのだから個別に取り締まれば良いだけで、言論の自由を優先せよとの意見もあります。しかし、これを言う人間の大半は弁舌の才に恵まれた...

コロナ禍の時代における人の慢

 慢は仏教で説かれる煩悩の一つで、おおざっぱに言うと自分と他者を比較し自分を過大評価して思い上がる事です。そもそも仏教の基本的考え方では自分とは全体の関係性の中で成り立つ移ろい行くかりそめの物に過ぎないのですから、自他を比較して良し悪しを論じるのは誤った物の見方ということになります。  コロナ禍にある現在でも社会のあちこちで慢が見られます。一部の健康な若者の中には、高齢で持病がある人達は自分たちの税金を食いつぶすだけの価値が低い存在なのに、その人達を守るために生活が不自由になるのは納得がいかないと言う人までいます。これは他人を見下し差別する慢と、自分は何があっても健康であるという思い上がりの慢とが合わさった考え方です。強く我欲にとらわれるとこのように恐ろしい邪見を生み出してしまうのです。  さて、自他を比較しなけば慢は生まれませんが、俗世を生きていくうえで完全に比較を避けるのは難しいものです。健康か病弱か、知能が高いか低いか、裕福か貧乏かなどの違いはどうしても目につきます。しかし、慢が先の例のように恐ろしい方向へいくのは、その人に貪欲さがあるからです。コロナなんて気にせずに自由に生きたいというのは人間として当然の欲求といえますが、自由にしたいがために他人を自分より劣っているとみなし、その命なんてどうでもいいと考えるから慢となるのです。確かにコロナ禍で生活が不自由となり経済的に苦しくなっている人が多くいるのは問題ですが、それは公的な支援が十分に出ればある程度は緩和されます。弱者の命を価値が低いとみなす事で自己の公衆衛生に反する行いを正当化するよりも、財政出動を促す陳情でもした方が健全です。自他を比較するよりも、自他の隔てなく平等により良い状態を目指す心が大切です。  一方で、こうした老人や病人をゴミあつかいにして好き勝手にしよとする人を、良心が無い悪人だとして叩くのも慢です。彼らはそのような歪んだ物の見方をする悲しい存在であり、攻撃では無く救済の対象です。説得が通用するかは分かりませんし、場合によっては強硬な対応をせざるを得ない場合もあるかも知れませんが、相手は悪人だから死んでも構わないなどと思えば彼らと同じ理屈にとらわれた事になります。  また、人は油断すると誰しも慢に取り憑かれます。常に自分の心を観察するのも煩悩を防ぐのに有効な手段です。他人の慢はすぐ気づきますが...

極悪非道の人への礼拝

 法華経に出てくる常不軽菩薩の話では、悟ってもいないのに悟ったと思い上がる僧や在家の仏教徒たちに対して、常不軽菩薩が「あなたは必ず仏になる人ですから軽んじません」と言って礼拝しました。また、菩薩行の基本となる四弘誓願の一番目は全ての衆生を救おうと誓う事です。全ての人はその内に仏を宿しているのですから、どんな人にも敬意をもって対応するのは仏教徒の心得です。法華経を奉じていた宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」はこの菩薩行を詠んだと言われています。  さて、全ての人に対してその内なる仏への礼拝の心を持って応じるのは、仮に相手があなたの家族を殺した強盗殺人犯でも、民族浄化を行った独裁者でも、非合理的な理由で暴動を起こす陰謀論者でも、どんな極悪非道な人に対しても敬意をもたねばならないと言うことです。これは難しいことです。  もちろん、刑事事件を起こしている相手が目の前にいれば、自分の身の安全の確保を最優先しつつ自首を促すなり、警察に通報するなりしなければなりませんが、菩薩行を修める者はその際に相手を憎む心や怒りの心をもってはなりません。相手が誰であってもです。  そんな時に、相手もいつか必ず仏になる人なのだと礼拝する気持ちがあれば、いくらかでも怒りを抑える事が出来るかも知れません。相手が欲する不条理を受け入れなくても敬意を持つことは可能です。  誰しも嫌な相手の一人や二人はいることでしょう。その怒りにとらわれるのは自分のためにも相手のためにもなりません。そんな時は、相手を礼拝するするつもりで見てみると、完全に怒りが消えなくても、冷静さを取り戻せることでしょう。

自力と他力

 暦は違いますが1月25日は浄土宗の開祖である法然上人のご命日です。仏教の伝統的なフォーマットは僧が修行を積んで自力で仏に至るというものでしたが、法然以後は、阿弥陀如来の他力による成仏という考え方が日本に広がっていきます。これは各宗門間の抗争の原因ともなりました。本日はそんな自力と他力に関して考えてみます。  まず、日本の伝統宗派で最も他力を強く主張するのは、法然の弟子の一人であった親鸞が開祖となった浄土真宗です。真宗では、信仰心も唱える念仏も門信徒が主体的に阿弥陀如来を信じ称名念仏している訳ではなく、如来の本願力が他力として働いた結果、各人が如来を信じて念仏申し上げていると解釈しています。そこに自力の要素は無く、門信徒は他力の救いを感謝するのみとなります。一般的な仏教徒が修行として善行に励み功徳を積む行為も、真宗では否定されます。善行は修行のためでなく、如来の本願力を受け自然に行うようになるものと信じられています。それゆえに真宗では祈祷や占いや真言・陀羅尼などは禁止されています。  その他の宗派は、浄土宗でも四修など修行のような考えがあり、また陀羅尼の入った経典も唱えますので程度の大小はあれ自力の要素は存在していると言えます。さて、その中で最も自力を重視する宗派は曹洞宗かと思いますが、では曹洞宗が絶対自力なのかと言うと他力の要素も含んでいます。道元禅師が南宋からの帰路、観音菩薩に祈り水難を逃れた話などは有名であり、決して自力に慢心していた訳ではありません。  そもそも論として、日本に伝わった大乗仏教ではこの世の一切が仏の現れであり全ての存在に仏の因子が内在されているとする如来蔵思想がベースとなっています。この場合、自力とは自分の内外にある仏の他力に任せる努力とも換言できます。我が我がとの邪見を離れれば、自ずと仏性に目覚める訳です。こう考えると全ての日本仏教の宗派は他力であるかのようにも見えますが、浄土教系の他力本願とは、この邪見を離れようとする自力の努力をも如来の他力に任せようと言う発想と言えます。  こうした他力の発想により得られた心の平穏と、自力の修行により得られた心の平穏を比較した場合、後者は自分の努力の成果だとの慢心を招きやすく、前者は自分をつつむ他力への感謝が生じやすいので、一見すると他力の方が良いようにも思えますが、他力という意識がある方が煩悩に呑み込...