改めてお寺へのお布施について考える
昔からと言えば昔からなのだが、存外にお寺やお坊さんは叩かれがちだ。小林一茶の句にも「御仏や寝てござっても花と銭」と詠まれるように、批判の対象となるのは今も昔も金銭関係の事が多い。ただ、確かにがめついお寺もありはするのだろうが、実体験としては良心的な所しかみかけないので、今日はお寺へのお布施について擁護してみたい。 お布施と言うとお寺への謝礼だという通念があるが、本来お布施とは物や行動を他人に施すことにより自己の執着を捨てる修行であり何かへの対価ではない。もちろん、お布施の対象はお寺だけではなく、自分以外のあらゆる生き物や仏が対象となるが、今回のテーマに沿ってお寺の場合で話をすると、お寺は檀家の布施を受け取るのが相手の執着を捨てさせる役に立つこととなる。だが、現実的な話ではお寺の運営としてあたかも値段として決まっているような物は多い。お墓の維持や葬儀のお勤めや戒名や法名の対価だと思われがちなお布施は、本来の考え方に基づけばお寺と檀家がそれぞれに独立して相手にお布施をしている状態となる。 以前にも書いたが、お布施する物は盗んできたものなどの不浄なものは避けねばならないなどのいくつかの決まりがあるが物品だけでなく、優しい表情や言葉や行動もお布施になる。もちろん何かの見返りを期待してはいけない。優しくしてあげたのに裏切られたと言う場合の優しさはお布施では無く、よい見返りを狙った貪りの心の現れに過ぎない。こうした貪りや自分の執着や思い上がりを捨てることで、怒りや貪りを離れる事ができ様々な事を耐えられる心が鍛えられる。大乗仏教の修行として有名な六波羅蜜の布施と忍辱はこうしてお互いにつながっており、更に盗んだり傷つけたりしない持戒にもつながっていく、こうした事を努力する精進や、それによる生まれる心の安定で禅定もしやすくなって、智慧が得られることなるから、六波羅蜜はそれぞれに関連している。六波羅蜜の第一歩は布施であり、本来のお布施は極めて重要な意味をもつと言える。 そういう、大事なお布施であるけど、実際に大金を支払わせられて困ると言う意見もあるだろう。そうした場合、まず大切なのはそのお寺と相談することだ。相手が仏道に基づく僧侶なら金額の相談や維持管理にお金がかからないお寺への紹介など何らかの解決策を探してくれるだろう。設定されたお布施の金額はあくまでも目安であるし、お寺の維...