ユマニチュード(人間らしくある為の介護)

 主に認知機能障害がある人への介護技術の一つにユマニチュードと呼ばれるものがあります。患者様の介護を「見る」「話す」「触れる」「立つ」事に留意して行う物です。これは単に認知症の患者様だけにではなく、各種疾病やそれに対する投薬などにより認知機能が障害されている患者様にも適応可能であると思われます。また、当サイトは基本的に終末期医療を中心に扱っていますが、認知症に関してもその生命予後(余命)は、診断からおよそ3〜7年くらいの事が多く回復も困難であり広義の終末期として心のこもったケアが必要だと考えます。 

 さて、では実際のユマニチュードはどういうものでしょうか?今回の話でユマニチュードの全てを語ることは出来ませんが、簡単に要約していきます。その前に断っておきたいのですが、ユマニチュードは一般的には認知機能障害がある患者様へのケアを目指しており、寝たきりによる患者様への不利益を防ぐために患者様が立つ事を重要視しています。ユマニチュードの開発者達は「人間は死ぬまで立って生きることができる」と提唱していますが、これは別に怪我や疾病で立てない人間を死んだも同然の状態と見捨てる発言ではありません。認知機能の低下が無いこれらの患者様はそもそもユマニチュードの適応とはならないだろうし、認知機能障害に合併した何らかの理由で立てない患者様へはそのレベルに応じて使える技術を使う事になります。また、一部マスコミなどではユマニチュードが万能の凄い技術かのように言われていますが、当然無効な事もあります。ただ、認知症の患者様のうちのいくらかでも、この技術によって良い療養生活が送られるのなら試してみる価値は十分にあります。  

 前置きが長くなりましたが、5分で分かった気になれるユマニチュードのまとめビハーラ風をはじめたいと思います。 

 まずはじめに患者様のケアのレベルを考える事からユマニチュードは始まります。それは、1.回復を目指すレベル、2.現在の機能を保つレベル、3.最期まで寄り添うレベルの三つです。ユマニチュードでは誤ったレベルのケアは有害であると考えます。例えば肺炎を起こした認知症の患者様が入院したものの治療を拒むため、抵抗できないようにベッドに縛り付けて肺炎の治療をして、一週間後に肺炎は治ったけど全身の筋力が弱り寝たきりになってしまうような事が起きたとします。この場合、本来は回復をめざして入院した患者様が、肺炎で死ぬことはなかったとしても、状態が悪化して退院することとなります。医療現場からみたら時にやむを得ない面もあるとは思いますが、様々な工夫を使ってこのような事態を避けることができればそれは素晴らしい事だと思いませんか?機能を保つレベルについても例えば脳卒中で入院した患者様が必要以上の身体抑制を受け、脳卒中での機能障害以上の障害が生じては悲しい事です。最期まで寄り添うレベルにおいても、可能な範囲で動いてもらうことで人生最後の生活の質をなるべく保つ事が出来ます。

 では次にユマニチュードの具体的な手法についてお話します。冒頭に述べたようにユマニチュードは「見る」「話す」「触れる」「立つ」事を四つの柱として考えています。一つずつ解説していきます。 

 一つ目の「見る」です。認知症の患者様は、文字通り認知機能に障害を起こしています。声だけの呼びかけや視界の端にあるものに対しての注意は散漫となりがちです。このため、患者様の目を正面から優しい表情と眼差しで見つめてから話を始めるのが大切です。 

 次の「話す」です。基本は優しく穏やかに話し会話することです。認知症の患者様が何か危険な事をしている時に大声で注意しても、患者様には何がいけなかったのか分かりませんし、何かわからないけど怒られたと言う嫌な記憶しか残らずその後の信頼関係にも悪影響を及ぼします。認知症が進行すると返事もままならなくなる事もありますし、言葉の意味自体も理解出来なくなることもありますが、その場合も語りかけ続けることが大切です。認知症がかなり進行した状況でも優しい表情で穏やかに語りかけることで、患者様は介護者がなにか良いことをしてくれているとの認識はしているものです。そうすれば患者様が不安や恐怖にかられて暴力を振るう事も減ることでしょう。これらの行動は、仏教でも「和顔愛語」という言葉として知られており、フランスで確立したユマニチュードと言う技術とインドで生まれた仏教と言う思想に時代や場所が違っても共通する人間らしい行為なのでしょう。 

 三つ目の「触れる」です。まず患者様にとって、ポジティブな触れ方とネガティブな触れ方がある事に注意が必要です。介護に当たっては患者様に広い範囲でゆっくりやさしく触れることが大切です。急に顔を触ったり手首を掴んだりする行為は認知機能の低下した患者様には殊更にネガティブな印象を与えます。着替えやおむつ替えの時につい力を込めがちですが、優しく見つめて穏やかな言葉で説明しつつ優しく触れて介護することで患者様が安心し円滑な介護が出来る一助となります。 

 四つ目は「立つ」です。ユマニチュードでは、"人間の尊厳は立つことによってもたらされる側面が強く、これは死の直前まで尊重されなければなりません。"とまで言い切っています。実際に、寝たきりでは肺塞栓が起こったり、筋萎縮が起きたり、褥瘡が生じたり、骨密度が低下したりとロクな事はありません。立つことに力点を置くのは医学的に見ても妥当性があると思われます。ユマニチュードでは立位でのケアや、歩行の際の介助方法や、その促し方などが多く説かれていますが、介護者が持ち上げずになるべく患者様自身の力を使わせる事を力説しているのは、医学的な合併症を防ぎ尊厳を保つ目的を達成するためなのでしょう。 
  
 最後に、これらの技術を用いてマナーとして当たり前の五つの事を順に行っていくのが介助を円滑にすすめるコツとなります。その五つの事とは、患者様に来訪を告げる「出会いの準備」、ケアの合意を取る「ケアの準備」、見て話して触れる技術を用いて患者様の知覚に働きかけた患者様が安心出来るケアの本体である「知覚の連結」、ケアでお互いに良い時間が過ごせたと振り返る「感情の固定」、次のケアを受け入れやすくするための「再会の約束」となります。 

 以上がユマニチュードの概略となりますが、要は認知機能が低下した人達に最後まで人間らしく過ごしてもらう為の技術なのです。単なる技術ではなくそこには人の心や意思が込められています。 

 このようにユマニチュードは一定の効果が見込めます。しかし、その実践については簡単なように見えて難しい物があります。昔、唐の詩人の白居易が高名な僧に仏教の要点を尋ねたときに、悪いことをせず良いことをする事だと言われたので、そんなものは子供でも知っていると返すと、子供でもわかる道理でも実践するのは難しいと諭された話があります。認知症の患者様を抑制せずに立って歩かせることは、患者様の尊厳を維持し合併症を減らしより良い人生を全うしてもらうためには間違いなく良いことです。ただ、それを実施する施設や病院が果たしてあるのかと言えばほとんどありません。入所なり入院なりしている患者様が転倒し大怪我をしたり死亡した場合、管理がなっていない危険な施設として地域社会より糾弾を受けるのはもちろん支払われる賠償金も膨大です。ユマニチュードのようなケアをするにあたり、転倒・転落事故を人間が人間らしく生を全うする上で避けられないコストとして理解される社会が到来しない限り、残念ながらこの技術は、それに同意する人達の小さなコミュニティでしか運用される事は無いのだろうと思います。ですが、こうした技術がたとえ一部でも医療や介護の現場であるいは家庭で使われれば、一歩でも半歩でもそれは前進であるはずです。 

それではまた、合掌。 

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