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無性有情

 現代に伝わる日本の仏教の多くでは人はみな仏性があり成仏できる可能性を秘めているとされますが、南都仏教の一つ法相宗の伝統的な解釈では人や生き物は五種類に分類され、その中には仏性を持たず何度転生を繰り返そうが永遠に成仏できない無性有情と呼ばれる生物が存在するとされます。こうした考えが法華経の一乗思想と対立したことで、日本天台宗の祖である最澄と法相宗の徳一が行った三一権実諍論は有名です。その後、何度かこうした論争があり、結局日本の仏教界では誰でも等しく成仏できるとする一乗説が主流となっていきました。  個人的には一乗説バンザイで結構なのですが、果たして無性有情なる存在がなぜ想定されたのかには興味があります。  この無性有情をありとする法相宗が拠り所とする思想は瑜伽行唯識学派の流れを汲むものです。これは法相宗独自のものではなく、中観派とならんで大乗仏教思想の根幹をなすものですが、これが無性有情という発想に関係していそうですのでちょっと考えてみましょう。  ところで、中観派の説明は空や縁起の思想を重んじる般若心経のアレですよと言えば、ああアレねと伝わりやすいのですが、唯識の方はなかなかに複雑です。学者さんやお坊さんから怒られそうですが、アウトラインの理解だけでも3年はかかるとの定説がある唯識を極めて単純にまとめてみます。まず、人は外界を認識して情報としてそれを統合・判断することでその記憶は最深部の意識に蓄積されると考えます。この最深部の意識の中にこそ仏性があるのです。しかし、人は五感から得た情報にあれやこれやと自分勝手な判断を加え自己へのとらわれで歪めてしまい、仏性が眠る最深部の意識を汚してしまうのです。だから、瞑想によって余計な判断を省き、五感から得たこの世の情報を直接的に最深部の意識につなげれば悟りが開け、仏性に従って衆生を救い始めるという思想です。  この思想を前提とすると、無性有情にはこの最深部の意識の中にそもそも仏性が存在しないと考えているのです。もしかしたら、これは昔々あまりにも素養が無い信者に絶望した僧侶が言い伝えたものなのかも知れません。しかし、誰かの最深部の意識の中に仏性が無いなどと外から他人が判断できるものなのでしょうか?もう一つの可能性としては、徹底的に瞑想して修行しても、自分の内に仏性のかけらも見出すことが出来なかった僧侶の絶望の叫びが伝わったものな...

Mr.ポテトヘッド

 映画トイ・ストーリーでも有名な玩具「Mr.ポテトヘッド」が性的中立性を守る為に名前からMrを外す事になったそうだ。姉妹品のMrs.ポテトヘッドもおそらく同様の扱いとなるだろう。  昨今ではジェンダーという言葉は社会的・文化的に制定された性とされることが多いが、元々は生物学的な性別も意味する。混ぜると話が混乱するので今回はジェンダーの定義を前者のものとする。リベラル的な思想では社会的な性差はあってはならないものとされるので、今回のMr外し問題も、このジェンダー・ニュートラルの思想を表したものだと言え、実際に販売元のハズブロもそのように言っている。  科学技術の発展に伴い生物学的な性差によるジェンダーの役割分担は昔ほどの意味を持たなくなっているのは事実であり、ジェンダーによる不平等感をなるべくなくそうというのは同意できる。  しかし、だ。80年来の歴史をもつある意味伝統的な玩具で、多くのアメリカ人の思い出の中に確固たる地位を築いているMr.ポテトヘッドからMr.の敬称を奪い取ることがジェンダー・ニュートラルなのかと言われれば疑問がある。  確かに、ジェンダー問題対策として敬称のMr.やMrs.やMiss.を廃してMs.に統一しようとする動きもあるし、HeやSheが性差別的だとして三人称は単数でもTheyを使おうとする運動もある。これを是とするならばMr.ポテトヘッドからMr.を奪うのは正しいことだ。だが、果たして生物学的な性差に対してつける敬称や代名詞はジェンダー問題なのだろうか?性同一性障害の人だっているだからと言う意見もあるけれど、何か新たに代名詞や敬称を作った方が早くないだろうか?  日本でもファミリーマートのお惣菜商品である「お母さん食堂」がジェンダー差別を助長するとして叩かれた事があった。これは、専業主婦が女性の自立を阻害する極悪な奴隷制度だとして叩く風潮から出たものかも知れない。専業主婦には経済的な自立が無く隷属的な立場になりがちだという指摘はその通りではあるが、専業主婦ないし専業主夫がいてうまく行っているご家庭も多いわけでシステムとして絶対悪だとするのは同意しかねる。特に仕事が尋常でなく多忙な人には、配偶者は専業主婦なり主夫であって欲しいとする考えがあっても道義的な問題があるとは思えない。もちろん、夫婦ともものすごく多忙な共働きをしてお金を稼いで家事や子...

プラセボとノセボとワクチンなどなど

 日本でもようやく新型コロナウイルスのワクチン接種も開始されましたが、巷ではいわゆるワクチン陰謀論的な話もしばしば聞かれます。一方で、 フードファディズム の回でも紹介したような、何とかという食品が免疫力を高めてウイルスに効くとか、比較的容易に入手可能な何とかという薬が実はコロナに効くんだなとどいう与太話も時々みかけます。今日はこういう現象に関わるプラセボ効果とノセボ効果についてお話します。  プラセボ効果については有名ですが、簡単に言うとニセの薬でも飲めば効いた気がするというものです。もちろんニセの薬では癌などは治りませんが、不眠症などには存外に効果を発揮します。  こうした思い込みから表れる効果を排除するために、新しい薬が発売される前の治験では、薬とニセの薬を患者にも医者にも分からないように無作為に割り振ってその効果を判定します。そして、ニセの薬よりも統計的に意味のあるほど効果があった薬が販売を認められるのです。ただ、命に関わるような病気では治験であってもニセの薬を投与するのに倫理的な問題点もあり、先発の既に効果があると分かっている薬との比較もよく行われます。極端に効果に差が出た場合は試験の途中で中止となる場合もあります。  前記の様に睡眠薬などは意外とニセの薬でも効果があり、現在も販売されている某睡眠薬の治験において、治療開始前は眠るまでに平均で約77分かかっていた患者さんたちが、その薬を飲むと2週間後には眠るまで平均で約57分と改善したのですが、ニセの薬を飲んだ人たちも平均で約60分まで短縮しており一定の効果をみとめています。この効果自体は医療的にも利用は可能なのですが、同時にニセの薬を使った詐欺行為でその被害者が熱烈に詐欺師やニセの薬を支持する場合があるという奇妙な現象を生み出す原因ともなっています。  一方のノセボ効果とは本来はニセの薬で有害な事象が出る事を言いますが、処方された薬に対する恐怖や不安から気分が悪くなってみたり、たまたま別の原因で起きた有害事象を薬のせいだと思いこんだりする場合にも使われる用語です。先に説明した治験で人に無害なはずのニセの薬を飲んでも下痢や吐き気など生じる事があります。また臨床での体験例として、前の主治医と喧嘩して病院をかわってきたとある病気の患者さまに、検査日程の都合上一旦はメーカーが違うだけの前と同じ睡眠薬も含む処方をし...

延命十句観音経は心の鏡

 延命十句観音経は小生が中学生の頃、始めて暗唱できた思い出深いお経です。しかし、その頃は自分のおかれた苦境や社会の不条理に対してなんとかしてくれと願いながらの読経だった事をおぼえています。要は現世利益の祈祷でした。観音菩薩のお経なので助けを求めるのは別に悪いわけではありませんが、お経の意味を考えると違った見方が出来ます。  ただ、延命十句観音経はある程度は多義的な解釈が可能であり、意味を考えると言っても各人によって捉え方には差があります。以下に延命十句観音経の全文とその現代語訳(案)をお示しします。 延命十句觀音経  觀世音 (かんぜおん)  南無佛 (なむぶつ)  與佛有因 (よぶつういん)  與佛有縁 (よぶつうえん)  佛法僧縁 (ぶっぽうそうえん)  常樂我淨 (じょうらくがじょう)  朝念觀世音 (ちょうねんかんぜおん)  暮念觀世音 (ぼうねんかんぜおん)  念念從心起 (ねんねんじゅうしんき)  念念不離心 (ねんねんふりしん)  現代語訳私案「観音様、私は仏に帰依します。仏様から悟りに至る因と縁を与えられ、仏と法と仲間たちの縁によって成仏することが出来ます。朝も夕も観音様を念じます。この念は心から起き離れることはありません。」  上記の様に考えると、このお経は観音様とともに菩薩の道を歩ませていただくという感謝の意味合いが強いように思えます。  さて、先述のようにこのお経は色んな解釈が可能です。例えば、上記の訳では佛(仏)を、悟るべき真理そのものである法身仏と想定していますが、釈迦如来や大日如来や阿弥陀如来などの個別のイメージを持つ仏様を思い浮かべる人も多いでしょう。  また、観音様は如来になれるのに、この世の全ての生き物を救うためにあえて菩薩にとどまっている方なので、お経の中の仏を観音様とみることも可能かと思います。その場合、帰依するのは観音様であり、因も縁も悟りも観音様とともにあり、この経を受持する者も全ての生き物を救うという決意表明となります。  延命十句観音経はそれぞれ読経する人の心の状態によって、祈祷だったり、感謝だったり、誓願だったりするのです。  なお、延命十句観音経の延命は臨済宗の高僧として有名な白隠禅師が江戸時代にこのお経を普及させた際につけたもので、十句観音経とだけ呼ぶ人もいます。十句観音経は南朝宋の時代の成立とも言われます。150...

ブログ開設記念日

 このブログも本日から2年目に入ります。今日はこの1年を振り返って個人的に印象的だったブログ記事を3つピックアップしてみたいと思います。それぞれリンクも貼っておきますので興味をもっていただけれた場合はぜひ御覧ください。  まず、はじめに良寛さんの辞世における不可解な点を考察してみた「良寛さんの辞世を公案的に読む」 https://www.angodo.com/2020/09/blog-post_10.html です。良寛さんの苦悩の人生とその辞世は、ビハーラ的な医療を考える上でも意義深いかと思います。その考察が甘く恥ずかしいところですが、「形見とて何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉」は仏教詩の定形から考えるとやはり破格だと思われます。小生はこの歌を、今生で仏道を成就し得ずに死ぬけれどその先の救いへの想いを詠んだ歌とみました。小生が調べ得た範囲では同様の考察は無かったので、この説に対して先達のご意見を聞きたいと思っています。どなたか心当たりがいらっしゃったらご指摘いただけると幸いです。良寛さんの歌についてはブログトップページの上の検索バーから「良寛さんの歌」と入れるとシリーズ1〜6が出てきます(上記リンクはタイトルが違いますがその2として数えています。)。良寛さんの歌に興味を持たれた方はあわせて御覧ください。  2つ目は「不思議の国のアリス症候群」 https://www.angodo.com/2020/08/blog-post_7.html です。主に偏頭痛に伴って生じることがある、自分の体やその他の物が著しく大きく感じたり小さく感じたりするなどの異常な感覚を起こす症候群です。他人には訊きにくい奇妙な症状に関しては本人はその不安感を一人で抱えている場合もあり、また医者でも知らない人の方が多いかと思うので周知する意味で書いてみました。これとは別に盲となっている視野などに持続的な幻覚を生じるシャルル・ボネ症候群というものもありますが、これも患者側から申告されることは稀で大体はこちらから聞かないと答えてくれません。  3つ目は「ユマニチュード」 https://www.angodo.com/2020/02/blog-post_28.html です。リンク先が冗長な文章になってしまっているのが残念ですが要点をまとめると、ユマニチュードとは認知症患者に対するケアの技...

ブログ開始からまる1年

 このブログは去年の2月24日に開始したので、本日でまる一年が経過することになります。去年は閏年だったので366日間あり、その間に書いたブログは367本なので平均で1日1本以上は書いた事になります。ここまで続けてこられたのもブログを読んでいただいた皆様のおかげです。誠にありがとうございます。  当初は一般病院でビハーラ的(仏教的)な医療を実施するためのアイデアを提供する目的で開設された当ブログですが、おりからの新型コロナウイルス感染症の拡大やアメリカ大統領選挙に伴うありえない規模での陰謀論の勃興があり、本題以外の話が多くなったと感じています。  思い返せばこの一年間、決して少なくない数の知人友人が陰謀論に狂っていきました。人は恐怖の前にいとも簡単に荒唐無稽な陰謀論を信じてしまうものだと思い知らされました。そういう人々を救うことが出来ない自分の無力さはなんとも嘆かわしいことです。  また、以前に書いた文章を見直しますと拙い物が多くこれまた嘆かわしいことです。ですが、書くことで自分の勉強になった面も多く、少しずつでも道を進むのが大切だと信じ、日々精進して参りたいと思います。  衆生無辺誓願度  煩悩無尽誓願断  法門無量誓願学  仏道無上誓願成

至道

 今日は私のネット上の仏教ネームでも使用している至道についてお話しします。漢文の読み下しだと「道二至ル」となりますから迷ったあげくにようやく仏道にたどり着いて、さあこれから精進しようという雰囲気もしますが、実は至道という言葉は悟りそのものや最高の教えを示しており、名前とするには恐れ多い言葉です。ただ、こうした宗教上の名前はそうありたいとの祈りとして掲げる意味もあり、ネット上の仮名としてでもそれにより引き締まる身もあるということで改名せず放置しています。恥ずかしい限りですが、第六天魔王を名乗るよりはマシだと信じて精進してまいります。実社会では実名で活動していますのでご容赦をば。  さて、至道とはなんぞやということは、しばらく前のブログの 言語道断の回 で紹介した「信心銘」に詳しく説かれています。その内容を要約すると、至道は自我にとらわれた好き嫌いなどの分別を離れ物事をありのまま見ることができればおのずと明らかになると説かれています。禅の入門書らしい教えです。信心銘では冒頭から至道とは難しく無いと断じておりますが、道理が示されていても実践は難しいものです。  簡単なはずの事がなかなか出来ないというのは仏教の本質でもあるように思えます。唐の時代の高名な詩人である白居易が道林禅師に仏教の真髄を尋ねたとき、禅師が「善いことをして悪いことをしないことだ」と返事をしたところ、「そんなことは三歳児にもわかる」と言った白居易に禅師は「三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたい」と指摘された話が思い出されます。道が分かっていても進んでいかなければ意味をなさないのが仏道なのでしょう。  道はまだまだ遠いですが、いつか成仏したいものです。