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たすけたまへ、たのむ

 部派仏教であれ大乗仏教であれ密教であれ、一般的に仏教は自分が修行して悟りを目指すのが基本であるが、浄土真宗では自力の修行を否定し阿弥陀如来の絶対他力にまかせる事を旨としている。自力を頼みとしないために慢心が抑えられる利点はあるが、作法や言葉の面で一般の仏教との乖離はあり、しばしば誤解の元となっている。  例えば、一般に神仏に向かって「たすけたまへ」「たのむ」と言えば何かしらの祈願をしていることになるが、浄土真宗の場合は違う。自分の望みを神仏に求めたのでは絶対他力にならない。真宗門徒の「たすけたまへ」は阿弥陀如来が一切衆生を助けるといっているのだから、「ああ、なら助けなさいませ」というような許諾のニュアンスであり、「たのむ」のはお願いしているのではなく阿弥陀如来の本願力をたのみ(頼り)にしているという帰依の表明となる。  現実的にいって阿弥陀如来に帰依していようがいまいが、世の中が自分の思い通りになることは無く、その本願力をたのみにするとは死後に浄土に生まれ仏になるとの確信であり、究極的なナンクルナイサーであると同時に自分の不甲斐なさを日々恥じ入るのだ。それゆえ自然に善いことをするようになる傾向はある。  だが、こういう発想なので浄土真宗的視点では祈願や祈祷は、他力をたのめない信仰心の低い行為だということになる。内輪でそう思うのは良いのだが、それを根拠に他宗派を攻撃するのはやめていただきたいものだ。

結婚式の加害性

 人の幸せを喜び、不幸を悲しむのは、慈悲を重んじる大乗仏教的では当然のことだ。  ここ数日、結婚式の加害性なる言葉がネット界隈を賑わせているが、他人の幸せを妬み、他人の不幸を望むのは、我に執着した煩悩の表れだと言える。  日本では結婚式の時だけキリスト教の唯一神に祝福を受ける夫婦が多いが、唯一なる神の祝福を受け神に誓った夫婦は、神の愛を地上に顕現させる使命を負っている。要は、神が望むような愛にあふれる家庭を築く義務が発生するのだ。最近では人前式なる結婚式の形態も増えてきたが、基本的に結婚式は誓約をともなう儀式であり、単に男女がつきあっているのとは違う拘束力が発生する。この儀式はあくまでも内向きの話であり、参列者は見届人というわけだから、結婚式それ自体に他者に対する攻撃性は無い。結婚式に加害されたと思う人がいるのであれば、それは受け手側の妄想だ。  そもそも結婚式の加害性などと言っているが、加害性が生まれる余地があるとすれば披露宴の方では無いだろうか?演出次第によっては新郎新婦や親族や出席者の一部が嫌な思いをすることもあるだろう。しかし、世間的な常識の範囲内での披露宴で幸せそうな新郎新婦を見たせいで惨めな自分が更に惨めになったから結婚式には加害性があるなどと言うのは、結婚式ではなくそんな惨めな思考しか出来ない受け手が自分自身を加害しているに過ぎない。実に可哀想だ。  この話題に関してネット界隈ではミソジニスト達が、披露宴は女性が周囲を攻撃し優位に立つためにやっているなどという色々とこじらせた意見を言っている。一体どれだけの酷い人生を歩めばそういう発想に至るのだろうか?悲しいことだ。

人権や環境に配慮した商品

 ユニクロの作る質の良い製品が驚くほど安価で売られているのは、組織的な人権蹂躙の結果だ。それはウイグル人の奴隷労働だったり、国内でも労働関係の法令を無視した過重労働を強いているから可能なのだ。  このように血塗られた製品を購入することは倫理的に問題があるばかりで無く、十分な対価を得られない労働者の貧困に拍車をかけることにもなる。  もしユニクロが心を改め、中国のジェノサイド政策を批判して奴隷労働による綿花の使用を拒否し、従業員に十分な給料と休養を与えたなら、恐らく商品価格は上がるだろう。だが、従業員の購買力は上がる。  さらに、ユニクロだけでなく他の人道に対する罪を犯している悪徳企業が人権に配慮するようになれば、物価も上がるが人々の購買力も上がり経済には良い循環が生まれる。  人権に配慮された製品の値段はそうでないものより高額になりがちで、人権への配慮で物が買えなくなるとする貧困層からの批判もある。しかし、物の値段が不当に安いのは貧困層が薄給で過重労働を強いられているからであって、まず適正な給与の支払いをさせるように圧力をかけねば、貧困は再生産され続ける。  同様に、環境に配慮した製品も高額になりがちだが、環境から再生産出来ないレベルの収奪を行えば、後々もっと高額になる。水産業などでは特にそうだ。人権問題と違い、水産物の乱獲が問題であることに関しては人々の理解を得やすいが、それでも実際には乱獲されてしまう。ダメなことだと分かっていても目の前の利益を優先させてしまう人が多いのだろう。

女性による妊娠中絶の権利

 ある程度は予測されていたことだが、6月24日にアメリカの連邦最高裁判所が、49年前から認められていた女性の中絶の権利を違憲とした。最近、アメリカの諸州で、母体の危険が予測されようが強姦の結果できた子であろうが人工妊娠中絶を認めないとする法律が次々と成立しているが、許容出来ない。  母体の危険が予測さえる場合はもちろん、女性側からみて望まぬ妊娠であれば、少なくとも妊娠中期前半までの中絶は女性の意志によるべきだ。なお日本の法律で、妊娠22以降の中絶が不能なのは、それ以降は早産したとしても児の生存が見込めるからだ。要は堕胎が殺人になると判断される週数ということになる。  ここで問題となるのは胎児をどの時点で人間であるとみなすかだ。今回の中絶禁止の背景にはキリスト教過激派の関与がささやかれているが、例えばカトリックでは受精卵の時点で人間であるとみなす。アメリカで主流のプロテスタントは派閥が多く見解は一定していないが、中絶禁止を求めている人々も概ね受精卵を人間だと考えている。こうした見解だから全ての堕胎は汝殺すなかれとの彼らの戒に反することになる。一方で、人工妊娠中絶を許容するプロテスタントの派閥もある。また、イスラム教でも中絶に一定の猶予を認める見解も存在する。(シーア派の)イスラム法で運営されているイランには治療的人工妊娠中絶法が存在しており、中絶は絶対的禁忌ではない。イスラム法の解釈にもよるが、胎児に魂がこもるのが受精から約4ヶ月後だという説も存在する。ただ、この場合は女性の権利ではなくあくまでも母体の保護が目的とされている。  ともかく、受精卵から人間であるとみなしている人と、そうでない人の価値観の差は絶望的に大きい。様々な価値観があること自体は別によいのだが、先に言ったようにアメリカでは近年次々と絶対的な堕胎禁止法が複数の州で成立している。今回のアメリカの連邦最高裁判所が中絶に関する女性の権利を否定したのは、この流れを加速させることになる。権利があってもそれを行使しない自由はあるが、今回は権利が否定されたのであり選択の余地はなくなる。深刻な事態だ。

穢土成仏

 悲華経に穢土成仏の話がある。昔々、阿弥陀如来と釈迦如来が成仏する前のいくつもあった前世で、後に阿弥陀如来になる人が王様だった世界があり、その家臣に後に釈迦如来になる人がいた。当時の世界観では世界は時間が経つほどに汚れていくとの考えがあったが、当時はまださほど汚れが進んではおらず、お釈迦様の前世である家臣の子が成仏し宝蔵如来となった。これに感化され王様も悟りを得ようと、環境の良い仏様の浄土での成仏を願った。その王子たちもまた浄土での成仏を願うようになった。一方、家臣の他の子らは浄土ではなく汚れた現世である穢土での成仏を願った。穢土で成仏すればそこで苦しむ人々の助けになるが、環境は悪く修行は大変だ。大臣の子らは、まだ汚れがさほど進んでない状態の穢土での成仏を希望した。最後にただ一人、お釈迦様の前世である家臣は、苦しむ人々の救済の為に後々の濁りきった世界での成仏を誓われ、宝蔵如来はお釈迦様の大きな慈悲の心を讃えた。そんな話だ。  劣悪な環境である穢土での成仏は難しい。穢土で苦しむ人を救うためにあえてその難しい行に挑まれ達成したお釈迦様は偉大だ。もっとも、法華経に準拠すれば、お釈迦様はずっと昔から仏であり人間の姿は方便に過ぎないのだが、いずれにしてもお釈迦様の成仏は多くの人々を勇気づけた。  現実世界でも、苦境に打ち勝って大成した人の存在は、多くの苦しむ人の希望となる。だが、その裏には苦境に潰され散っていった膨大な数の人々がいるのを忘れてはいけない。個々人が苦境に負けないタフさを身につけるのは良いが、既に苦境から脱した力がある者は人々が妄想に囚われることなく正しく学べる環境を整えるべきだ。初めから良い環境で良い教育を受けた人達も、苦しむ人たちへの慈悲を忘れてはいけない。  

陰謀論候補

 来たる参議院選挙では陰謀論を唱える候補が多い。昔から変なことをいう候補はいたが、今回は多すぎだ。恐ろしいことに現在でも、陰謀論を唱える国会議員は存在する。今回の選挙で陰謀論議員が増えないように祈る。選挙とは良い候補選ぶのが基本だが、選挙区の候補がどれもアレな場合は最悪の選択を避けるために一票の使うのが正しい。  陰謀論候補のほとんどは当選しまい。だが、オウム真理教の真理党が選挙で惨敗した際に、彼らはそれを国家的陰謀だとの妄想を膨らませ過激なテロへ走っていった。油断は出来ない。  最近でもトランプとQアノン一派は大統領選で負けるやアメリカの議会を襲撃する暴挙に出た。狂った陰謀論者は何をしでかすか分かったものじゃない。治安当局には十分な警戒を願いたい。一般市民も日々彼らを警戒し不審な挙動があれば当局への通報を躊躇してはいけない。

大きな主語としての仏教

 一部の仏教関係者が「仏教では〜」という場合にそれが特定宗派に特有の考え方やお作法であることも多い。こうした言説は、他宗派の人からの反感を買いやすいが、各宗派とも仏教には違いはない。これは、何某宗何某派の仏教解釈を、仏教全体ではという意味に解釈するから起きる問題だと言える。その辺は不本意であっても内向きと外向きの言葉遣いは変えた方が誤解が少なくて済むだろう。  さて、では仏教ではという大きな主語を用いても許される範囲はどこまでだろうか?諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印については仏教ではと言っても問題あるまい。一切皆苦を足した四法印は、大乗仏教の常楽我浄との矛盾を指摘する意見があるものの、一般論としての一切皆苦は否定出来ないと思われる。だから、仏教ではとの主語の利用は四法印まではセーフだ。また、初転法輪で説かれたとされる四諦八正道も仏教ではと言ってよい。大乗仏教で最も有名なお経である般若心経では「無苦集滅道」との文言があり、四諦を無とみなすが、空は四諦に含まれる縁起の思想から演繹であり根本が異なる訳ではない。  では、大乗仏教の根幹である空や唯識はどうか?部派仏教からは否定されるだろう。しかし、日本で仏教ではといえば基本的に大乗仏教の事であり、日本ローカルの集まりで前後の文脈から大乗の話だと判っていれば、仏教ではと言っても良い。  それ以外の宗派的な話は、外向きには何々宗ではと注釈を入れた方が気遣いが出来ていると思う。