器世間と共形サイクリック宇宙論

 古い仏教の世界観に器世間と呼ばれるものがある。それは衆生が輪廻転生を繰り返す場であり、須弥山を中心とする世界を太陽や月がまわっている。そこに天界や人間界があり、地下には地獄があって、地の下には金輪際の語源ともなった金属の輪があって、さらにその下には水の輪があり、最下層には風の環が回っていると考えられていた。つまり輪廻転生の先となる天界、人間界、地獄などの世界は並行世界ではなく、一つの世界の上に存在することになる。面白いことにこの器世間はその中に生きる衆生の業が尽きると滅び、新たに生まれ変わるとされ、生き物だけでなく世界も輪廻するという考えだった。

 現代科学の視点で見ればこれは荒唐無稽なおとぎ話に過ぎないが、世界全体を縁によって永遠に生滅を繰り返し移ろいいくものとする視点は、仏教の諸行無常や諸法無我の真理と矛盾しない。

 さて、世界が生滅を繰り返すとする発想自体が正しいのか否かはまだ分からないが、科学的な視点でもサイクリック宇宙論という説では宇宙は滅びと再生を繰り返すとされている。その一種の共形サイクリック宇宙論を唱える人達は実際に前の宇宙に由来する光子を宇宙背景放射から見つけようとする観測も行っている。将来、人類は宇宙の輪廻の証拠を掴むのか、あるいは単なる妄想だったのかの結果を知りたいものだ。

 ここでは一旦、宇宙も生滅を繰り返すと仮定する。そうすると時間と言うものはあまり意味を持たなくなってしまう。なぜか?まず自分について考えてみると、無限の施行回数があるのだから、自分と同じ遺伝子をもつ人間は過去に無限にいたはずであり、同時に未来にも無限に生じるだろう。それぞれの自分は様々な人生を送り、そのなかには今の自分と全く差が無い人生も無限にあることになる。俯瞰して見れば、自分の多種多様な人生は確率の濃い薄いの問題となり想定しうる全ての可能性は超長期的視点では完結して既に実在している事になるからだ。その視点を世界全体に拡大しても同じことが言えるので、時間という概念は可能性の問題に還元されてしまう。

 だからどんな可能性が少ない存在でも、例えば世界のすべてを救おうと決意した法蔵という名の菩薩も無限に存在する。その中には今から十劫前に成仏した法蔵菩薩もいたことだろう。宇宙論はロマンだ。こうして宇宙論を考えてみると、器世間の考えや倶舎論を作り上げた昔の僧侶達もロマン溢れる人達だったに違いないと思う。

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