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誰がどの政党や候補者を支持しようがそれ自体が非難されてはならない

 選挙が近くなってくると、個人や団体がどこそこの政党や候補者を支持するというような発表がなされることがある。それに対して、個人や団体が特定の政党を支持した事自体を問題視して、その個人や団体を非難して叩く風潮もあるが、これはよろしくない。自分と意見が合わないのであれば、その意見の相違に関して議論なりなんなりすれば良いのであって、自分と価値観が違う人が自分とは違う党を支持するのは当然だからだ。例えば、共産主義者は概ね共産党に投票するだろうし、ヘイトスピーチですら表現の自由だとするいわゆる表現の自由戦士は自民党に投票する傾向にあるだろう。  表現の自由戦士に対してガチで言論弾圧をしそうな共産党に投票しないのは酷いとか言われても、戦士諸君だって困るだろう。虎党が巨人を応援しないのは酷いと言われるくらいに意味不明だ。個人的には共産主義者も表現の自由戦士も逆のベクトルで行き過ぎだと考えているので、彼らに言いたい文句は多々あるが、彼らの投票行動自体を否定するのはもはや人権問題だ。  今回の選挙にも、日頃から私が規制すべきだと主張している陰謀論を掲げて選挙活動をしている政党や個人が散見される。私はそんな候補者が全員落選するように願っているが、可哀想にも陰謀論に取り憑かれてしまった人が彼らに投票するのは自由だ。選挙戦が始まる前に、致死的なデマを流した人は逮捕しておくべきだったのだとも思うが、候補者となった以上は選挙活動を阻害するべきではない。大した支持も集まらないだろうから良いが、日本の法律は甘い。凶器や毒物で一人でも殺せば逮捕されるのに、人命を奪う明らかな誤情報を金銭目的などで流布させて大量殺人をはたらいてもほとんど逮捕もされないのはおかしい。もっとも、エキセントリックな泡沫政党が存在するおかげで、それを支持するような犯罪予備軍があぶり出されたのは不幸中の幸いだ。当局には頑張って情報収集にあたって欲しい。

非実在キャラ

 近年、日本で表現の自由を守れと声高に叫ぶ人達の中には、ロリコンやペドフィリアの漫画やアニメやゲームを市販する自由を守れという集団もいる。彼らが得意満面にいうのは、彼らが好むコンテンツには人間の被害者がいないということだ。絵に描かれた幼い女の子が強姦されたり手足を切断されたり内臓を引きずり出されても、実際には誰も被害にあっていない。彼らは、絵の中の女の子が苦しむのを見て性的に興奮して射精する自由を主張する。こうしてガス抜きをした結果、実際の女児に被害が及ばないのだから良いことづくめだとも言う。だが、非実在キャラをどんなにしようが構わないという考えが必ずしも正しくないのは少しシチュエーションを変えれば明白なことだ。  例えば、非実在の黒人キャラクターを非実在の白人至上主義組織がリンチにかけて木につるして喜ぶというストーリーのレイシストを対象にした漫画があったとしよう。そんなものの市販が許されるか?否だ。こう言うと社会派の映画などでは黒人や有色人種が酷い目にあう作品なんていくらでもあると反論する人もいるが、そうした作品は差別を支持していない。そうした残虐行為に反対する文脈で描かれている。幼女を性的に肉体的に精神的に虐待して死に至らしめる欲望を持つ一部の人たちが、その欲望に忠実な描写を楽しむための漫画を市販させろと言うのが公序良俗に反するのは明白だ。  もし、黒人を虐殺するのを楽しむ目的で作られた漫画が流通し、レイシストたちが黒人の目の前で笑いながらその漫画を読んでいたらこれはもう脅迫と同じだ。ロリコン漫画を電車などの公衆の場でデュフデュフ言いながら読んでいる人たちも同じようなものだ。  だが恐ろしいことに、こうした特殊性癖をもつ集団は表現の文脈と言うものが分かっていない。少し前にオタクのインフルエンサーが、フェミニストたちは萌え絵の作品は批判するのに、女性を蔑視する表現が盛り込まれている進撃の巨人を批判しないのはダブル・スタンダードだとの文句を言っていた。進撃の巨人を読んだ人間なら当然理解していると思うが、女性蔑視やヘイトクライムはこの作品中で一貫して批判的に描かれている。この差異が一部のオタクたちには理解できないのだ。彼らが注目しているのは自分が好む表現の有無一点だ。作品の主張がなんであろうと、この手のオタクたちは自らの嗜虐趣味を満足させる表現があれば何でもいいのだ。...

香港返還25周年

 7月1日に香港の中国への返還25周年を迎える。その前日の6月30日に習近平が香港に入り、香港が完全に独裁国の一部となったのを世界に見せつけた。香港の自由と民主主義と人権が、どのように蹂躙されていったかを忘れてはならない。油断すれば日本も同じ目に遭う。  ロシア、中国、ミャンマー、北朝鮮などの独裁国と、欧米や日本などの自由主義諸国との対立はもはや避けようもない。今後ふたたび冷戦の時代となるのか、戦火を交えることになるのかは分からないが、ここまで価値観が違えば妥協はあり得ないし、あってはならない。独裁者に譲歩して得られる短期間の平和などまやかしに過ぎない。独裁者のご機嫌を伺うお土産を用意する必要は微塵もない。  日本国内にも、奴隷の鎖と引き換えに生存を許されることを平和と呼ぶようなファシストどもがウヨウヨいるが、次の選挙ではこうした輩を当選させてはならない。香港ではもはや自由な選挙は無い。彼らの無念と我が国の危機を思えば棄権など出来ないはずだ。  最近のファシストは口先では平和を唱えるが、実のところ独裁者の走狗となれと言っているだけだ。騙されてはいけない。日本を香港の様にしたくないのなら投票場に行って民意を見せつけてやるしかない。

たすけたまへ、たのむ

 部派仏教であれ大乗仏教であれ密教であれ、一般的に仏教は自分が修行して悟りを目指すのが基本であるが、浄土真宗では自力の修行を否定し阿弥陀如来の絶対他力にまかせる事を旨としている。自力を頼みとしないために慢心が抑えられる利点はあるが、作法や言葉の面で一般の仏教との乖離はあり、しばしば誤解の元となっている。  例えば、一般に神仏に向かって「たすけたまへ」「たのむ」と言えば何かしらの祈願をしていることになるが、浄土真宗の場合は違う。自分の望みを神仏に求めたのでは絶対他力にならない。真宗門徒の「たすけたまへ」は阿弥陀如来が一切衆生を助けるといっているのだから、「ああ、なら助けなさいませ」というような許諾のニュアンスであり、「たのむ」のはお願いしているのではなく阿弥陀如来の本願力をたのみ(頼り)にしているという帰依の表明となる。  現実的にいって阿弥陀如来に帰依していようがいまいが、世の中が自分の思い通りになることは無く、その本願力をたのみにするとは死後に浄土に生まれ仏になるとの確信であり、究極的なナンクルナイサーであると同時に自分の不甲斐なさを日々恥じ入るのだ。それゆえ自然に善いことをするようになる傾向はある。  だが、こういう発想なので浄土真宗的視点では祈願や祈祷は、他力をたのめない信仰心の低い行為だということになる。内輪でそう思うのは良いのだが、それを根拠に他宗派を攻撃するのはやめていただきたいものだ。

結婚式の加害性

 人の幸せを喜び、不幸を悲しむのは、慈悲を重んじる大乗仏教的では当然のことだ。  ここ数日、結婚式の加害性なる言葉がネット界隈を賑わせているが、他人の幸せを妬み、他人の不幸を望むのは、我に執着した煩悩の表れだと言える。  日本では結婚式の時だけキリスト教の唯一神に祝福を受ける夫婦が多いが、唯一なる神の祝福を受け神に誓った夫婦は、神の愛を地上に顕現させる使命を負っている。要は、神が望むような愛にあふれる家庭を築く義務が発生するのだ。最近では人前式なる結婚式の形態も増えてきたが、基本的に結婚式は誓約をともなう儀式であり、単に男女がつきあっているのとは違う拘束力が発生する。この儀式はあくまでも内向きの話であり、参列者は見届人というわけだから、結婚式それ自体に他者に対する攻撃性は無い。結婚式に加害されたと思う人がいるのであれば、それは受け手側の妄想だ。  そもそも結婚式の加害性などと言っているが、加害性が生まれる余地があるとすれば披露宴の方では無いだろうか?演出次第によっては新郎新婦や親族や出席者の一部が嫌な思いをすることもあるだろう。しかし、世間的な常識の範囲内での披露宴で幸せそうな新郎新婦を見たせいで惨めな自分が更に惨めになったから結婚式には加害性があるなどと言うのは、結婚式ではなくそんな惨めな思考しか出来ない受け手が自分自身を加害しているに過ぎない。実に可哀想だ。  この話題に関してネット界隈ではミソジニスト達が、披露宴は女性が周囲を攻撃し優位に立つためにやっているなどという色々とこじらせた意見を言っている。一体どれだけの酷い人生を歩めばそういう発想に至るのだろうか?悲しいことだ。

人権や環境に配慮した商品

 ユニクロの作る質の良い製品が驚くほど安価で売られているのは、組織的な人権蹂躙の結果だ。それはウイグル人の奴隷労働だったり、国内でも労働関係の法令を無視した過重労働を強いているから可能なのだ。  このように血塗られた製品を購入することは倫理的に問題があるばかりで無く、十分な対価を得られない労働者の貧困に拍車をかけることにもなる。  もしユニクロが心を改め、中国のジェノサイド政策を批判して奴隷労働による綿花の使用を拒否し、従業員に十分な給料と休養を与えたなら、恐らく商品価格は上がるだろう。だが、従業員の購買力は上がる。  さらに、ユニクロだけでなく他の人道に対する罪を犯している悪徳企業が人権に配慮するようになれば、物価も上がるが人々の購買力も上がり経済には良い循環が生まれる。  人権に配慮された製品の値段はそうでないものより高額になりがちで、人権への配慮で物が買えなくなるとする貧困層からの批判もある。しかし、物の値段が不当に安いのは貧困層が薄給で過重労働を強いられているからであって、まず適正な給与の支払いをさせるように圧力をかけねば、貧困は再生産され続ける。  同様に、環境に配慮した製品も高額になりがちだが、環境から再生産出来ないレベルの収奪を行えば、後々もっと高額になる。水産業などでは特にそうだ。人権問題と違い、水産物の乱獲が問題であることに関しては人々の理解を得やすいが、それでも実際には乱獲されてしまう。ダメなことだと分かっていても目の前の利益を優先させてしまう人が多いのだろう。

女性による妊娠中絶の権利

 ある程度は予測されていたことだが、6月24日にアメリカの連邦最高裁判所が、49年前から認められていた女性の中絶の権利を違憲とした。最近、アメリカの諸州で、母体の危険が予測されようが強姦の結果できた子であろうが人工妊娠中絶を認めないとする法律が次々と成立しているが、許容出来ない。  母体の危険が予測さえる場合はもちろん、女性側からみて望まぬ妊娠であれば、少なくとも妊娠中期前半までの中絶は女性の意志によるべきだ。なお日本の法律で、妊娠22以降の中絶が不能なのは、それ以降は早産したとしても児の生存が見込めるからだ。要は堕胎が殺人になると判断される週数ということになる。  ここで問題となるのは胎児をどの時点で人間であるとみなすかだ。今回の中絶禁止の背景にはキリスト教過激派の関与がささやかれているが、例えばカトリックでは受精卵の時点で人間であるとみなす。アメリカで主流のプロテスタントは派閥が多く見解は一定していないが、中絶禁止を求めている人々も概ね受精卵を人間だと考えている。こうした見解だから全ての堕胎は汝殺すなかれとの彼らの戒に反することになる。一方で、人工妊娠中絶を許容するプロテスタントの派閥もある。また、イスラム教でも中絶に一定の猶予を認める見解も存在する。(シーア派の)イスラム法で運営されているイランには治療的人工妊娠中絶法が存在しており、中絶は絶対的禁忌ではない。イスラム法の解釈にもよるが、胎児に魂がこもるのが受精から約4ヶ月後だという説も存在する。ただ、この場合は女性の権利ではなくあくまでも母体の保護が目的とされている。  ともかく、受精卵から人間であるとみなしている人と、そうでない人の価値観の差は絶望的に大きい。様々な価値観があること自体は別によいのだが、先に言ったようにアメリカでは近年次々と絶対的な堕胎禁止法が複数の州で成立している。今回のアメリカの連邦最高裁判所が中絶に関する女性の権利を否定したのは、この流れを加速させることになる。権利があってもそれを行使しない自由はあるが、今回は権利が否定されたのであり選択の余地はなくなる。深刻な事態だ。