LGBTQ+
性的なマイノリティーを示す略号のLGBTは有名だが、LGBTに区分されないマイノリティーをQ+としてまとめてLGBTQ+とする表記方法がある。このQ+の一つとして興味深かったのはAllyと呼ばれる者の存在だ。Allyは生物学的性別が性自認と一致している異性愛者で性的なマジョリティーではあるもののLGBTQ+を支援する人達だ。この定義ならばAllyは性的なマジョリティーにとどまらず、社会でもマジョリティーだ。今の時代、性的なマジョリティーの中でLGBTQ+だから差別しろと主張する人達はかなりの絶滅危惧種だ。だからAllyを含めてのLGBTQ+ならばこれに属さない人の方がマイノリティーということになる。つまりLGBTQ+はマイノリティーの分類方法ではなく社会運動における彼らの勝利宣言とも見れる。
一方で、キリスト教やイスラム教などは基本的には同性愛を禁止しているので、LGBTQ+とこれらの信者との対立は避けられない。滅びかけているがISことイスラム国では同性愛者は死刑(私刑)の対象だし、よりマイルドなイスラム教圏でも例えばインドネシアの一部の自治体では同性愛者は刑罰の対象となっている。キリスト教では、バチカンが同性愛者に理解を示す態度をとっているものの、キリスト教において神に宣誓し祝福を受けた夫婦を中心とした家族は神の愛を体現する使命を帯びた存在であり神聖視されるので、バチカンの姿勢はあくまでも妥協の範囲内と言える。また先日廃案とはなったが、日本の国会で議論されていたLGBT理解増進法案も、理解してやるという態度が気に入らないとしてLGBTの方々からの批判を受けていたことも考えればバチカンも含めて、マジョリティーが理解を示してやるという姿勢ではLGBTQ+はおさまらないのだろう。
しかし、価値観が違う者どうしを無理やり同化するので無ければ、理解と妥協以上の事を望めば争いを招くだけのような気もする。同性婚の法制化くらいが落としどころではないだろうか。他人に干渉しないのであれば、キリスト教徒が異性婚を神聖だと思ったところでそれはLGBTQ+を差別したことにはならないだろう。今や社会のマジョリティーとなったLGBTQ+がキリスト教思想を間違っているとして矯正しようとするのはさすがにやりすぎだと思う。少なくともバチカンは歩み寄ったのだ。多様性に寛容な社会とは全てを同化することでは無い。そんなのは全体主義と同じだ。多様性の維持に必要なのはちょうどよい距離感だ。
とはいえ歴史を振り返れば、かつてのマイノリティーがマジョリティーと化した時、旧マジョリティーはだいたい狩られる。またまた歴史は繰り返されるのか?その結末を見届けるまで私の寿命は持つのか?気になる。
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