レイシストと多様性と寛容のパラドックス

 一部のレイシスト達が多様性をことさら大事にするのは、特定の人達を差別するのも多様性の一つで排除してはいけないとする理屈による。言っている本人たちが認識しているかどうかは知らないが、これは有名な寛容のパラドックスを体現しているものだ。

 全ての多様性を守る必要があるというのは文字通りに解釈すると、多様性を破壊しようとする意見も多様性として受け入れなくてはならなくなってしまう。もちろん、多様性を大事にする社会とは、他を排撃しようとする存在に関しては例外的に排除するという前提があるのは自明なのだが、しばしば忘れ去られる。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならないのだ。

 だから、何とか民族は皆殺しにしろだとかいう意見やそれに基づく行動は一切認める必要は無い。言論の自由は何がなんでも保証せよとする意見も根強いが、明らかな侮辱やデマに基づく暴力の推奨や殺人の教唆などは言論の自由に値しない。

 これまでも似たような話は何度もしてきたが、言論の自由を盾にレイシストたちを擁護する人はあとを絶たない。しかも多くは善意でやっているのだからたちが悪い。

 コロナの時代に目立つのは、ワクチンやウイルスのデマを軸に叩きたい国や企業や個人へのヘイトを炸裂させる手法だ。聞くに堪えないデマを喧伝しながら、科学的にはこういう説もあるのに何某の圧力で言論の自由が弾圧されているとか言うものだ。現実の脅威に関して有害なデマを吹聴してまでヘイトを推進しようとするのは全くもって理解し難い。しかも決して少なくない科学リテラシーの低い人間がこのレイシズムに騙される。

 こうした手法ではコロナ陰謀論を広めるよりはレイシズムがその主たる動機なので、レイシズムを取り締まるだけで陰謀論の大半も消え去ることになる。多くは科学や社会問題に偽装しているが、単にレイシストが暴れているだけだからだ。エセ科学でも科学を主張する意見を取り締まりにくいのなら、徹底的にレイシズムを取り締まればいい。国には断固たる行動を期待したい。

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