ダイヤのような日
茨木のり子の「ぎらりと光るダイヤのような日」という詩の中に、
世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
とある。これは茨木のり子が存命中に死ぬ間際を想像してそう思った事を書いたのだろう。この前の段落には、
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたりもっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品になってしまう
ともある。女性差別が今よりも著しく酷かった時代を戦い抜いてきたインテリ女流詩人にとって、子育てなどは「じぶんが本当に生きた」日々には当たらないのだろう。何か行間からこみ上げるものがある。こうした思索や知的探究を志向する詩人がいたからこそ文学は発達して人々の情緒を涵養してきたのだ。ただ、それは分かった上でだが、そう言い切ってしまう貪欲さにはいささかの恐ろしさも感じてしまう。
最終段落では、じぶんが本当に生きた「ぎらりと光るダイヤのような日」が人によって違うとは書いているが、人によって違っていてもそれはとても例外的で滅多には無い日なのだという認識だったのは間違いない。
こうしたストイックな偉人を見ていると、子供と過ごした日の全てがキラキラとしたダイヤモンドのような日である人は随分と贅沢な人生を過ごしているのだと思う。そんな日々の中でも色々と考えたりよりよく変わっていくご両親も多い。それが可能となるのは個々人の知力ではなくご縁の力によるものだろう。誠にありがたいことだ。
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