普賢岳

 今日は長崎県の普賢岳でおきた大火砕流から30年目の日となります。改めて犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 さて、この火砕流では予測された危険区域には避難勧告が出されておりましたが、いい絵を撮ろうとした報道陣が居座り、避難区域内集落の民家に不法侵入し盗電するなどの犯罪行為が横行していました。こうした報道陣の犯罪から故郷を守るため、また報道陣にも避難に応じてもらうために地元の警察や消防団の人達は彼らの説得にあたり、そのために火砕流に巻き込まれて死亡しました。本当に可哀想なことです。

 しかし、当時の報道では死亡した記者達をまるで英雄かのように扱い、記者魂を持って取材を続け殉職したとして礼賛するプロパガンダが展開されていました。その後、徐々に彼らの犯罪が暴かれてからはそのトーンも落ち着いて来ましたが、日頃は他罰的なマスコミが自分の身内の問題は隠蔽する体質は今も変わっていません。

 さて、ではこの時に殉職したマスコミの人達は極悪非道な鬼のような人間だったのでしょうか?確かに、地元住民のことなど人間とも思わぬ傍若無人な振る舞いや、己が利益を優先した公益に反する避難勧告の無視、自分たちも含めた徹底的な人命軽視など、地獄の鬼もかくやの行状ではあります。しかし、おそらく個人レベルではいい人の方が多かったのだろうと思います。

 意外に思われる人も多いでしょうが、組織的な残虐行為の実施において個人の人間性はあまり重要ではありません。例えば、北アメリカ大陸で行われた原住民の大虐殺はマニフェスト・デスティニーとして知られる神から与えられた使命だと考えられていました。でも、その時代にアメリカに移民した白人の個々人が愛や慈悲のかけらも無い人達だったのかというと、そんなことはありません。単に白人以外を人間だと認識していなかっただけで、その内部では倫理も道徳もあったのです。もちろん殺された側はたまったものではなく非道は正さねばなりませんが、同じ発想で報復し合えば殺し合いが終わることはありません。

 人間は、国家など何らかの権威からお墨付きを貰えば容易に残虐な行為をやってのけるのです。普賢岳で取材をしていた人達の場合は、報道のためならば何をしていも構わないという会社や業界の風潮が非道を無視させたのです。有名なミルグラム実験でもあったように、善良な一般人でも科学実験のためだとの口実だけで無辜の被験者に致死的になりうる電撃を平気で与えるのです。悪いのは個々人よりもシステムや風潮なのです。

 世間ではマスコミはマスゴミなどと呼ばれ蛇蝎のように嫌われていますが、彼らの調査力はまだまだ社会に有用な面もあります。各社のバイアスを理解した上で利用し、その構成員に対しても同じ人間だと信じて対応しましょう。また、自分が普賢岳の報道陣のような非道を犯さないためにも、殺すな盗むなという戒はいつも心に留めておくべきです。

 犠牲者全ての冥福を祈ると同時に、残された人達の心が怒りや憎しみから解放されるようにお祈りします。

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