巨人の肩に乗る

 社会制度はそれを作った人が死んでも、次の世代に引き継がれ時代に則した改善が加え続けられます。それはしばしば軍事独裁政権などにより破壊されますが、ひとたび成文化された法は独裁政権崩壊後の復興にも役立ちます。

 巨人の肩に乗るとはアイザック・ニュートンの名言です。科学だけでなく色んな学問は先人が作り上げてきた成果の上に新たな知見を切り開いていくのです。ニュートンの時代は、まだ科学と哲学と宗教が明確には分離していません。彼の活躍したおよそ100年後にようやくヘーゲルが出てくるくらいなので仕方ないことです。ニュートンは錬金術師や宗教家や哲学者としての側面も持っていましたし、自然科学が自然哲学から完全に分離するのは概ねヘーゲルの後くらいです。ヘーゲルの思想は少し仏教の唯識論に似ており、認識を極めることで世界の真理に近づいて行こうとしています。仮説の構築と検証の繰り返しで真実に近づいていこうとする科学の手法も、ヘーゲルが止揚(アウフヘーベン)の繰り返しによって真理に近づこうとした姿勢と同じで、これらの発想はいずれも巨人の肩に乗っているといえます。

 もちろん現在の科学者も巨人の肩に乗っています。大学でざっとは科学史や哲学も学ぶでしょうが、そんな所まで遡らなくても科学者はやっていけます。哲学者の巨人の肩から生まれた科学も今や膨大な量に細分化されており一々その起源まで学ぶことは通常はしません。それでも困りませんが、たまには先人たちが築き上げてきた知識の上の自分達がいることを自覚するとその意義を再認識できます。これは自然科学だけでなく社会科学でも同様です。

 現代に限らず昔から、こうした人々の知識の積み上げを台無しにしようとする社会の動きは存在します。科学的妥当性がある知見に対して、それが誰かの不利益となる場合、その不利益への対策を講じずに不都合な事実自体が存在しないという願望を無根拠に、あるいはデタラメに捏造された証拠で真実だと盲信し科学的事実の方を否定しにかかるのです。それはより多くの人の不利益となる事実が存在する場合により強固な現象としてあらわれます。そういう人はかつては事実と思われたことが覆った例を出して、現在の科学的事実を絶対に正しいと盲信しているのは科学者の方だと批判します。ですが、正しいと思われていた事実が覆る例では、確実な証拠を突きつける事ができたから覆って来たのです。全く証拠を出せない単なる妄想とは比較にすらなりません。それに既存の事実を絶対に正しいと盲信してガリレオを裁いたのは科学者ではなく教会です。科学はより妥当性のある仮説があるのならば無視したりはしません。

 社会において数は暴力となりえます。代々営々と積み重ねてきた知識が、感情論で社会的に否定される恐れもあります。科学の徒にとって今こそが鍔際と言えるでしょう。

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