進化論と仏性

 大乗仏教の如来蔵思想では、仏性は全ての人が持っており各自が煩悩を取り除けば自然と現れると考えられています。その仏性が、何かしら生物学的に人間に内包される存在なのか、空を悟りうる人間の知能に対する比喩的表現なのか、それ以外なのかを考えてみたいと思います。

 仏教が東アジア地域に流入するはるか前の孟子と荀子の時代も、人間の本性が善なのか悪なのかは議論がありました。彼らの有名な性善説・性悪説と如来蔵思想を比較してみた場合、如来蔵思想では人には仏性があるとしており一見すると性善説を支持しているように思えます。しかし、一方でほとんどの人は煩悩により利己的な行動ばかりしているともされるので、本来は性善説なのだけれでも実質的には性悪説と変わらない状態であると世の中を見ていることになります。荀子の場合はその悪を制御するために学問を修めるという解決策が提示しているのです。荀子は人間は社会性を学ぶことで後天的に善を身につけるのだと考えていました。しかしここで疑問なのは、利己的である人間が、あえて善を求めて学ぶのはその内面に善を希求する心があるのでは無いかということです。本来は利己的であるはずの人間に善を求める心はどのように定着したのでしょうか?

 さて、それを考える前に人の進化の過程について見てみます。人間の環境適応力の最たるものは、個々の知恵よりも社会を形勢する能力にあると思われます。どんな強い個体でも組織的な数の暴力の前には無力です。では人間は、知恵を持っていたから集団でいることの利点を見抜いて社会を形成したのでしょうか?おそらく違います。近縁の霊長類がほぼみんな群れを形成することを考えても、人間は生物的に群れる性質を持っているとみるべきです。アリやイワシと変わりありません。

 もちろん、単に群れているだけでは善も悪も仏性もありません。そこに知恵の介在があるのも間違いないのです。次に、どういう種類の知恵がミームとして生き残るのかも進化論的に解釈してみます。人間が群れの中で個人の利益を最大化しようとした時に、集団内の身近な個体から収奪する作戦がまず考えられます。多くの霊長類の群れにボスがいる様に、人間も内部抗争に勝った強い個体が群れのリーダーであったことでしょう。更に、自分たちの群れ以外にも人間がの群れがいれば、他の群れから奪う戦略も立てられ競争となります。群れの間の抗争に敗れれば生存には不利益となります。生存のためには群れは強くなければなりません。この競争の結果、リーダーが自分の利益を最大化させ集団の力を削ぐような戦略を立てた群れは滅び、群れ全体の数が安定して増えるような戦略をとった集団は生き残っていったと思われます。こうして、公益を重んじる群れが優勢となり公益を守ろうとする思想が生まれ、公益を犠牲にする考えや行いは非難され、利他主義が善、(過度な)利己主義が悪という発想が生まれたものと思われます。
 
 つまり、遺伝的進化の果に起きたミーム的進化によって人間は利他行為を善とするようになったと思われます。生物が本質として利己的であるのは間違っていないのでしょうが、人間はある程度は利他的であった集団が生存に有利だったので、競争に勝ち残った現代の人類は概ね利他的であることを是とする価値観をもっていると考えられます。ミームは変異するので、全く利他的でない人間も存在するかも知れませんが、人間が群れる生物である以上はその個人もマジョリティーである利他主義の影響を受けざるを得ず、人は何かしら仏性的なものを持っていると言ってもあながち間違ってはいないといえ、仏性は人の本能に関連した知性に内在されると結論づけます。

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