島原天草一揆と天変地異とデマ

 寛永14年10月(1637年12月)に始まり翌寛永15年2月末に終結した島原天草一揆は、日本史上でも有名な殲滅戦であり、一揆軍のみならず避難していた非戦闘員も含めて大量の住民が幕府軍に惨殺された。一揆軍はポルトガルからの侵略を誘致しようとした疑惑もあった為、疑わしい者ごと根絶やしにされたとする見方もある。確かに一揆には旧小西家家臣などのキリスト教過激派らの策謀があったが、参加した住民らが全てがキリスト教徒だった訳ではなく島原を支配していた松倉氏の暴政に対する不満が爆発した影響も大きかった。つまり、この一揆はキリスト教徒の信仰心だけではなく、住民の不満や、旧キリシタン大名の家臣の野望など、色々なものがないまぜになって起きた武装蜂起だったと言える。

 さて、そうした色々な要素が重なって起きた一揆ではあるが、実は寛永14年6月(1637年7〜8月)に島原地方で起きたという天変地異によって人々の不安が煽られたという側面もある。太陽暦だと夏の盛りに、島原領内では桜が咲き乱れ、数千匹のカエルが共食いをはじめたり、西の空にまるで巨大な火事のように見える赤黒い雲が立ち込めたという。こうした異常な自然現象に目をつけた旧小西家の家臣らが、これはかつて宣教師が予言したこの世の終わり最後の審判の予兆なのでキリスト教徒にならないと大変なことになるなどと吹聴してまわって人々の不安を大いに煽った。果たしてこうしたデマの流布が一揆の勃発にどれほど影響があったかは分からないが、開戦後に一揆軍が多くの神社仏閣を焼き払い仏僧を殺害したのには影響しただろうと思われる。

 古来、天変地異などがあると何かしらの悪者がデッチ上げられたり、デマやヘイトで多くの人が死んできた。昨今の流行病でも日々荒唐無稽なデマが流れそれを信じた人が世界の各地で暴れ、彼らにより被害を受けた人達が報復するという構図があり、病気以外が原因で人間同士が傷つけあっている。情報技術が向上しても教育レベルが上っても人間は昔からあまり進歩していない。もし、治安維持に関する社会システムが昔程度に脆弱なら多くの人が死んでいたことだろう。そう考えると人間はいくらかは進歩しているように見えるが、これは人間の本質が進歩したのではなく社会制度が進歩した結果だ。昔の賢人らがより悲劇を起きにくいようにするために地道にルールを作り上げてきた結果だ。人は死んでも制度は残り、残った制度は後の世代から改善を施されさらに次の世代につながる。だから、それを全て台無しにするような強圧的な独裁制が世界に台頭しようとしている今は全力でこれを止めなければならない。

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