島田叡
島田叡は沖縄戦の際の沖縄県知事であり、その生死は不明だが、おそらく昭和20年(1945年)6月に死亡したものと見られている。命日が分からないが6月の今日はこの人物の話をしたい。
島田が沖縄県知事に着任したのは昭和20年1月31日で、沖縄戦が始まったのは同年3月下旬だった。この一ヶ月少々の間に島田は沖縄県民の北部への疎開を進め、食料の確保に尽力し、物資の乏しい中で酒やタバコの嗜好品を民間に放出するなど、来たるべき戦闘による被害を極力減らすのと人心の安定に努力した。
米軍が沖縄本島に上陸を開始した4月1日から20日足らずに沖縄北部は制圧された。島田が北部に疎開させた8万人にも及ぶ老幼婦女子らの多くも米軍の管理下に入った。米軍管理下での住民の苦労は色々あったが、この後に南部で起きる大量の住民を巻き込んだ戦闘と比べると島田が疎開を急がせたのは正解だったといえる。
沖縄戦は大本営と現地の第32軍の方針が一致せず作戦に一貫性がなかった事や、沖縄戦の直前に沖縄防衛のために鍛えていた主力部隊が台湾に移動になった事など問題も多かったが、日本軍は南部の首里を拠点に激しく抗戦した。しかし、5月末には首里を撤退し、多くの住民が住む南方に撤退することになる。軍の南部撤退の方針に島田は激怒し軍に対して、首里で玉砕せずに住民を巻き込むのは愚かだとまで言い放っている。
住民のために死力を尽くして努力した島田だったが、6月上旬には行政機能が維持できなくなり、職員に生き延びるように訓示をして行政機関としての沖縄県は活動を停止した。沖縄戦は6月23日に終結した。
島田叡はこの時期に死亡したものと見られている。わずか43歳の生涯であった。自刃したとの説もあるが、その最期は不明であり死体も現在に至るまで発見されていない。
コメント
コメントを投稿