煩悩が無いのは無気力か?

 怒りや貪りは仏教で滅すべきとされる煩悩の代表格として有名です。しかしながら、人にこうした情動が無いのは単に無気力ではないのかという指摘が時々あります。果たしてそうでしょうか?人の行動の動機には怒りや貪りしか無いのでしょうか?少し考えてみたいと思います。

 過去を振り返ると、人の歴史とは概ね戦争の歴史です。そして戦争は確かに貪りや怒りから生じています。戦争は誰かの煩悩が無いと起きないようです。ただ巻き込まれた方には迷惑な話です。煩悩による戦争を起こさないのは無気力かというと、もちろんそんな事もありません。戦い以外で精力的な活動をした人も多くいます。

 商売で財をなした人たちはどうでしょう?確かに、はじめから大金を貪ることを目指して頑張った人も多いですが、何らかの理想を目指した結果として財産を築いた人たちも少なくありません。歴史的に語り継がれるのはこうした理念を持つ資産家の方です。モノ作りに関してはスティーブ・ジョブズや、松下幸之助などもそうです。より古い時代でも三国時代の呉の魯粛やアメリカ独立戦争時代のハイム・ソロモンなどの富豪は、後の見返りを期待していたかも知れませんが、公的理念の為に私財をなげうつ賭けに出ました。人は煩悩に取り憑かれていなくても大きな事業を行えるものなのです。

 仏教は苦しみを滅するためにお釈迦様が修行して発見された教えです。この世の全ては究極的には苦であるけど、苦の原因である煩悩を滅すれば苦もまた滅びるとするものです。

 天正10年に織田軍に焼き払われた恵林寺で焼死した禅僧の快川紹喜の辞世ともなった「心頭滅却せば火も自づと涼し」との言葉にあるように修行した僧には生きながらに焼かれるのも苦では無いようです。では、煩悩が極めて少なかったと思われる快川紹喜は無気力だったのかと言えばそんな事はありません。そもそも恵林寺が焼き払われたのは快川紹喜が、織田家と敵対していた敗者をかくまいその受け渡し要求を断ったからです。宗教者としての筋を通したわけですから気力は十分だったでしょう。

 怒らなくても悪に立ち向かえますし、貪らなくても結果として財をなすことも出来ます。人は怒りや貪りの心を動機にしか活動できないなんて事は無いのです。

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