ミャンマーと分別

 仏教国ミャンマーでの軍事クーデターと住民の虐殺はとても看過出来るものではない。だが、各国政府に口先の抗議はあっても実行性のある行動は見られない。これは不道徳ではあっても各国の利益の最大化を目指す政治力学的にはありうる話だ。こういう時こそ宗教勢力は抗議の声を上げるべきだろう。実際にローマ教皇はミャンマー軍政府への批判をしているが、当事者である仏教界の声は小さい。全く嘆かわしいことだ。しかし、なぜこんなことが起きるのか?これは有名な上座部仏教の某僧侶が、この問題を語る時に政治体制としての民主主義と独裁制には良し悪しの差が無いとして何も介入しないと断言したように、分別を嫌っているからでは無いかと思われる。

 仏教の基本の一つに主観による物事の区別である分別を妄想とする考えがある。これ自体は確かにそうだろう。主観による分別を除き世界をありのままに見る無分別智は悟りと同義でもある。この理屈を曲解し極端に解釈すれば、殺人も救命も暴政も善政もそれに対する価値判断も全ては我にとらわれた主観による分別によるもので妄想であると言える。前述のように上座部仏教は高名な僧から軍部の暴挙を許容しているのだし、逆に苦しむ民衆にその苦しみは自分の妄想から起きるものだとでも言うのだろうが、この仏教の基本的な思想をもってミャンマーにおける軍事政権の暴虐を許容し抗議の声をあげないのは少なくとも大乗仏教的には誤っている。主な理由は三つ。

 第一に、明らかに理不尽な理由で苦しむ衆生を見捨てれば菩薩道を歩む大乗仏教の仏教者としてその存在意義が消失する。

 第二に、虐殺を許容するのは無分別智の曲解だ。自利利他円満の言葉にあるように自分と他人ひいては世界を区別なく利するのが大乗仏教の理念だ。分別しないのは自他の別であり生きとしいける全てのものが幸せであるように努力するのが菩薩というものだ。自分さえ苦しみのない悟りの境地に達すれば他はどうでもいいと考えるような一部の修行者と同じであってはいけない。

 第三に、可哀想だろ?人間としての常識で考えろ。あれやこれや知識ばかりに偏重して人を見なくなるからこんな当然のことがわからなくなるのだ。

 しつこいけど、私は一人でもミャンマーの軍事政権に抗議する。

コメント

このブログの人気の投稿

妙好人、浅原才市の詩

現代中国の仏教

懐中名号