メメント・モリ

  ”Memento mori”はラテン語で「死を忘れるな」という意味でキリスト教では、この世での富貴の虚しさを強調する際に使われることが多い言葉です。逆に非宗教的にはどうせ死ぬのだから精一杯この世を楽しもうとするニュアンスで使われる場合もあります。どちらにしても人生とは簡単に終わってしまうもので、時間は貴重なのです。

 日本でも老少不定とはよく言われることで、高齢だろうが子供だろうが人はいつ死ぬのかわかりません。浄土真宗開祖の親鸞上人が九歳で得度した折にもこの老少不定の心を示す話があります。諸事情で親鸞の得度の式が遅れ夕方になったので、もう明日にしようとしたところわずか九歳の親鸞は天台宗の高僧慈円に対して「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と歌を詠んで抗議したと伝えられます。明日も命があると思うのは愚かなことだとして今から得度を受けさせてほしいとの希望を桜の花に例えて歌に詠んだのです。これに感じ入った慈円が夕から得度の式をあげたとされます。

 もし、私が今日死んだら、後で散らかった部屋の掃除をする人が可哀想です。仕事の記録ももう少し誰が見てもわかりやすいようにまとめないと引き継ぐ人が大変です。遺産ももう少し残してあげたいところですが今日も余計なことにお金を使っています。こんなしょうもないこと以外に伝えるべき思いもあるはずですが、しょうもないことを片付けとかないと安心してかっこいいことも言えません。

 ただ、なにか気の利いたことを言ってやろうと色々考えたところで頓死してしまえば無駄になります。だから今ここで死んでもいいように、日頃から無様な言動をせぬように留意したいものです。

 しかし、人は今日も今日とて公私ともにやるべきことを積み上げてしまいます。口ではメメント・モリよと言ったところで、体感として明日もあると思いこんでいるからでしょう。

 また、自分だけでなく、家族、友人、知人もある日突然死んでしまう場合もあります。茶道の一期一会の精神で応対したいものです。

 まあ、とりあえず掃除しよう。


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