禅定障

 禅定障という言葉があります。心静かに禅定を目指すのをよしとするあまりに、静かに場所に引きこもって世間を見下して自分がすごい存在だと思い上がることです。

 そもそも、世界は網の目のような縁のつながりであり自他を分別してより上位だとか下位だとするのは禅定が足りていない証左でしょう。

 しかし、これは何も座禅や瞑想に執着する場合にのみ生じるものではなく、利他行とされる布施や持戒においても、それらをする自分が何か偉いものだと他を見下せば同じことです。

 菩薩道の基本は自利利他円満であり、利他の行いが自利と同一となる視点が大切なのです。確かに修行の足りない我々凡夫の利他行には慢心や思い上がりが混入しています。しかし、だからと言って利他行そのものが無意味だとして、目の前で困っている人を見捨てたり見殺しにするのが仏道にかなった考え方だという言説には同意しかねます。

 また、正邪の別をたて自分が絶対に正しいとして他を排撃するのは間違っているとする意見も一見すると正しそうに見えますが、使用する局面によっては禅定障の一種と言えるでしょう。ヘイトクライムでよくある某民族が地球を裏から支配する秘密結社の尖兵で民族浄化すべきなどという荒唐無稽な理屈は明確な誤りであり断固として社会から排除すべきです。そして、そういう意見も多様性だなんだと言って訳知り顔で許容するのは明らかな不正です。自分以外の世間を低俗と見下し興味が無いからそんな発想が生まれるのです。

 内面を見る修行ばかりしていると社会的な常識が欠如しがちです。外を見てもその識は内側のものなのだから、世界を分別し評価し見下すことは己を傷つけているのと同義です。修行者にはありがちな誤謬なので自戒としても用心したいものです。

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