令和三年、春の彼岸三日目

 春の仏教強化週間お彼岸の三日目です。六波羅蜜をお彼岸の各日にあてる風習では本日は忍辱の日です。

 忍辱は耐えることです。どんなに辛い目にあっても心を乱さない事です。しかし、これは目の前で誰かが理不尽な暴力にさらされている時に見捨てる事を意味しません。暴力を振るう側に対して怒らずにその行動を阻止するよう努めるべきです。

 一方、仏教の説話では手足を切断されようが命を奪われようが、一切の抵抗もせず忍辱しつづける行者の話もあります。日本では一般的では無いですが現代でも上座部仏教では全ての暴力を受け入れ抵抗しないという仏教者も多くいます。

 これは上座部仏教において出家と在家が完全に分離されているから出来ることとも言えます。出家者の最高刑罰は僧集団からの追放です。その際に俗世での刑法に触れていれば世俗の者が処罰するのです。僧侶は非暴力を貫けますが結局は世俗の者が犯人を逮捕し処罰することで社会秩序が保たれるのです。出家者は世俗社会に支えられて存在しますから、社会秩序の維持の為にこのような役割分担が出来てきたのだと思われます。悟りを開けるのは出家者のみで在家はそれを支えるという形の上座部仏教ではそれでも良いのですが、在家信者も成仏を目指し世俗に生きながら仏道を進む大乗仏教では、他人の不正を阻止せずにおくのは難しい面もあります。例えば強盗が襲ってきた時に、犯人の望み通りに奪わせて犯人の証拠隠滅の為に殺されてあげたのでは犯人の悪事を助けてあげたことなり、大乗仏教の根幹である自利利他の精神に反します。殺してはいけないのなら殺さしめてもいけないし、盗んではダメなのなら盗ましめてもダメなのです。また社会的な公益の観点からも犯罪の幇助は許容出来ません。善良な市民は犯罪を防ぐように努めるものです。ともあれ、他人の非道を阻止するかどうかは別として、その際に怒らないようにするのはどちらの仏教の忍辱でも共通しています。そして最も大切なのはどんな苦難にあっても仏道を歩み続ける事です。

 話が脇道にそれましたが、人は忍辱の修業により心の安定が得られるようになります。自分が酷い目にあったとの主観を一度すてて、自分と周囲の状況を客観的に観察できれば冷静さを取り戻せます。そもそも怒るような問題が起きた時に、怒りは冷静さ失わせるだけですので、実利的な問題解決のためにも忍辱は大切です。全ては関係性の中の存在であり確固たる我は存在しないという諸法無我の考えで物事をみると忍辱もやりやすいでしょう。

 また、自分にこだわる視点から離れると、人は生きているだけで他の誰かに忍辱を強いているものだと分かります。社会は人を許し合うことで成り立っているのです。お彼岸は日本独自の仏教行事ですので、日本的なお互い様の精神を忘れずにいたいものです。

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